統一ソマリ会議
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統一ソマリ会議
ソマリア内戦に参加
活動期間分裂前/1987年2月1日 - 1991年11月
アイディード派/1991年11月 - 1992年6月→SNAに改称
アリ派/1991年11月 - 2001年→暫定国民政府に統合
構成団体ハウィエ (ハバル・ギディル(英語版)支族、マルサデ支族、アブガール(英語版)支族)
指導者アリ・モハメド・オソブレ(英語版)
アリ・マフディ・ムハンマド
モハメッド・ファッラ・アイディード
本部モガディシュなど
活動地域ソマリア中南部
関連勢力

ソマリ国民運動 (SNM)
ソマリ愛国運動(英語版) (SPM)
ソマリ救済民主戦線(英語版) (SSDF)
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統一ソマリ会議(United Somali Congress, USC)は、ソマリア内戦初期に有力だった軍閥の一つ。ソマリ族の5大氏族の一つハウィエが1987年に設立した。軍事的才能に優れた将軍モハメッド・ファッラ・アイディードに率いられて、第3代大統領のモハメド・シアド・バーレの追放に成功するが、その後は分裂。分裂後の闘争がソマリアの首都モガディシュで行われたため、ソマリア内戦泥沼化の大きな原因の一つとなった。
背景

1970年代のソマリアでは、第3代大統領のモハメド・シアド・バーレオガデン戦争に失敗し、その後クーデター未遂とされる事件が数件起こった[1][2]。これらに与したとされる人物の多くが逮捕され、一部は海外に逃亡した。

1980年代の終わりになると、バーレ体制はかなりのほころびが目立つようになり、国中で氏族を中心とした軍閥が発生し、レジスタンス運動を始めた。
設立

統一ソマリ会議は1987年、イタリアのローマハウィエ氏族のディアスポラ有志が設立した[3]。1月7?15日に会議が行われ、元ソマリ国民運動幹部のアリ・モハメド・オソブレ(英語版)、通称ワーディグリー(Wardeegle)が議長に選ばれた[4]。1989年にエチオピアに支部ができた[5]。インドに滞在していたモハメッド・ファッラ・アイディードが参加して軍事部門のトップに立つと、軍事力が大幅に増強された。

1990年半ば[5]にワーディグリーが死去すると[6]、事務部門トップのアリ・マフディ・ムハンマドと、軍事部門トップのモハメッド・ファッラ・アイディードが主導権を巡って対立した[7]。対立の原因には、ハウィエの出身支族が異なること(アリはアブガル支族、アイディードはハバル・ギディル(英語版)支族)もあった[8]。それでも、ハウィエ氏族はソマリア中心部が本拠地であり、氏族としても大きかったため、統一ソマリ会議は力を発揮した。
発展と分裂

アイディード率いる統一ソマリ会議の部隊は、1990年にソマリアの首都モガディシュに侵攻し、12月にはバーレ大統領を追放し、モガディシュは統一ソマリ会議の支配下となった。

ところが1991年1月、事務部門トップのアリ・マフディ・ムハンマドがアイディードに無断でソマリア大統領就任を宣言する。これにアイディードが反発し、6月にはアリ・マフディ・ムハンマドの部隊とアイディードの部隊の間で戦闘が勃発[5]

1991年7月に行われたジブチ会議において、アリ・マフディ・ムハンマドは2年間の暫定大統領の立場を承認される。これによりジブチ、エジプト、イタリア、サウジアラビアなどからも承認を受けた[8]。しかし、アイディードはこれも認めず、9月に再び戦闘となった[5]。1992年3月に再び大きな戦闘が起こり、アリ・マフディ・ムハンマドは首都モガディシュの北部を、アイディードはモガディシュ南部と周辺地域を占拠した[5]

アイディードは1992年6月に、周辺の軍閥のいくつかを統合してソマリ国民同盟(英語版)(SNA)と呼ばれる新たな軍閥を作って統一ソマリ会議と決別[5]。ただし、その後もアイディード一派はUSC/SNAとひとくくりに呼ばれることも多い。

一方で、アリ・マフディ・ムハンマドはソマリ救国同盟(Somali Salvation Alliance, SSA)を設立し、こちらはUSC/SSAと呼ばれた[9]

国連は仲介のため、まず1992年2月にアリとアイディードをニューヨークに招き、その結果両者は3月に停戦協定に合意した。これを機として、4月に国際連合ソマリア活動(UNOSOM)が開始された。しかしアイディードがUNOSOMに協力的ではなかったため[10]アメリカ軍主体の多国籍軍統一タスクフォース(英語版)(UNITAF)が編成され、12月9日から「希望回復作戦」と呼ぶ作戦を開始した。その結果、12月28日にアリ派とアイディード派の休戦が成立。

1993年3月27日のアディスアベバ和平会議にはソマリアで活動する15の組織代表が集まり、モハメド・カニャレ・アフラ(Mohamed Qqnyare Afrah)がUSCの議長として参加している。アイディードもSNAの代表として参加[6]

しかし結局戦闘は収まらず、第二次国際連合ソマリア活動も功を奏しなかった。1993年10月3日のモガディシュの戦闘をきっかけに国連の活動は衰退を見せる。まず、1994年3月にアメリカ軍がソマリアから撤退。さらに、残りの国連軍も1995年1月から3月にかけて撤退した。

1995年6月にアイディードはソマリア大統領就任を宣言。この際に、部下のオスマン・アリ・アト(英語版)が独立し、アトは自身がSNA議長であると宣言。一方で、アイディードとアリとの抗争も依然として続いた。
アイディードの死亡

1996年7月末、アイディードが射殺される。8月4日、ハバル・ギディル氏族の長老会議が行われ、アイディードの息子のフセイン・モハメド・ファラー・アイディードがアイディード率いる軍閥の後継者となることが決まった[11]。ソマリア大統領就任も宣言するが、やはりソマリア国内の他の派閥および国外共に認められなかった[12]。このころには、アイディード派、アリ派共に統制が緩んでおり、いくつかの小軍閥の集合体に過ぎなくなっていた。

1997年12月22日、フセインは長年の宿敵アリ・マフディ・ムハンマドと和解協定を締結。これはカイロ宣言と呼ばれる[12]。1998年8月には首都モガディシュの共同統治案が出される。アリ派のムサ・スディ・ヤラホウ(英語版)がこの案に反発して独立。ヤラホウもUSC/SSAのリーダーであると宣言[13]
アリ派の暫定国民政府への統合

2000年7月、ジブチにてソマリアの暫定大統領選挙が行われ、アブディカシム・サラ・ハッサンが選出された。ハッサン暫定大統領の政権は暫定国民政府と称した。アリ・マフディ・ムハンマドもこれに参加し、統一ソマリ会議アリ派も消滅。
参考文献[脚注の使い方]^ ARR: Arab report and record, (Economic Features, ltd.: 1978), p.602.
^ Ahmed III, Abdul. “ ⇒Brothers in Arms Part I”. WardheerNews. 2012年2月28日閲覧。


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