結婚式
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小説・TVドラマについては「結婚式 (松本清張)」をご覧ください。

「婚礼」はこの項目へ転送されています。オペラについては「婚礼 (ワーグナー)」をご覧ください。

「ウェディング」はこの項目へ転送されています。テレビドラマについては「ウェディング (テレビドラマ)」をご覧ください。
日本の結婚式の一例西洋の結婚式 (エセックスイギリス)

結婚式(けっこんしき、英語: wedding[注 1])とは、婚姻を成立させるため、もしくは確認するための儀式である。片仮名でウェディング、ウエディングと表記することもある。

結婚式の習慣は古くから世界各地に見られる。地域や民族により様々な様式があり、宗教的なものやそうでないものもあるが、どの場合でも喜びの儀式である。

「儀式としての結婚式」が終了した後の宴会に関しては《結婚披露宴》の項を参照。
結婚式が行われる場所20世紀初頭からのウェディングドレス(1935年)。スペイン・バルセロナ。

宗教的な場で行われるもの、行政的な場で行われるもの、家族の家で行われるもの、商業的な施設で行われるものなどがある。
宗教的な場で行われるもの
新郎新婦の双方もしくはいずれかが信者であって、教会堂寺院神社など宗教的な施設において、宗教的な権威を体現する人によって結婚を宣言してもらう形態。世界中で見られる形態。
行政的な場で行われるもの
市庁舎で市長によって結婚の成立を宣言してもらうものなど(フランスイタリアなどのヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で行われている民事婚)。フランスではmariage civilと呼び、米国ではcivil marriageと呼んでいる。
家族の家で行われるもの
新郎新婦のいずれか(通常は新郎)の自宅や本家の屋敷などに親族や知人を招いて行われる。日本でもかつては極めて一般的な形式であったが、住宅事情の変化もあって、現在一部の地方を除いて行われることはめったにない。
商業的な施設で行われるもの
日本において、結婚式場で行われるものや、レストランなどで行う人前式、客船上の結婚式など[注 2]、バリエーションがある。
日本における結婚式の歴史
日本神話の国産み

古事記』『日本書紀』一書第一などの日本神話における伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)国生み神生み神話ではオノゴロ島天の御柱を建て、イザナギが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描写があり、結婚式の起源ともいわれる[4]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}如此應而伊邪那岐又詔 既此,吾倆行繞天之御柱 逢而為婚 伊邪那岐詔約其妹 曰 汝者自右迴逢 吾者自右繞逢 如此依約繞行 方所逢之時 伊邪那美先言 妍哉 汝壯俊男焉 伊邪那岐續言 妍哉 汝麗美人焉—『古事記』即將巡天柱 約束曰 妹自左巡 吾當右巡 既而分巡相遇 陰神乃先唱曰 妍哉 可愛少男歟 陽神後和之曰 妍哉 可愛少女歟 遂為夫婦—『日本書紀』一書第一
平安時代

通い婚の時代での帝(天皇)においては、女御と家族が入った宮中の殿舎に、天皇が三夜しのんだ後発見されたという「露顕(ところあらわし)」(露見)という宴をおこなう。これが現在の披露宴に該当する。民間においても、平安期の結婚は男性が女性の下に三夜続けて通う形式であるが、女性の家ではその間訪れる男性と従者を接待する。3日目には露顕という披露宴が行われ、新郎新婦が披露される。列席者は妻側の関係者のみに限られる[5]
室町時代

和泉流狂言『舟渡婿』では通い婚が「露見」した後に嫁と舅の家へ鯛などの魚と酒を持参し祝いをするという式を行うことが前提になっている。
安土桃山時代

1563年永禄6年)に来日し、安土桃山時代の日本の記録を残したルイス・フロイスの書簡によれば「日本では結婚式をおこなわない」と記述されている。しかし、この時代も有力な武家の婚礼は盛大に行われた。[6]また、高台寺では当時、下級武士だった豊臣秀吉ねねの結婚について「土間に藁を引き、その上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言」を挙げたという記録が残るなど[7]、当然この時代においても身分によらず婚姻に際しての儀式、すなわち結婚式は行われていた。
江戸時代から明治江戸時代の結婚式のイラスト(イサーク・ティチング画)『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年慶応3年)出版1889年(明治22年)地学者志賀重昂の結婚写真

中世には婚席の床飾りから見られ、江戸中期の『貞丈雑記』に明文化された。新郎の自宅に身内の者が集まり、高砂の尉と姥の掛け軸を床の間に掛け、鶴亀の置物を飾った島台を置き、その前で盃事をして結婚式をする、いわゆる祝言が行われた。旧暦の10月は「神無月」であったので、結婚式はこの月を避けて行われた。民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、明治以降に確定した神前式の形式とは異なった。式場は自宅を中心とし、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であったとされる。この際、新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、夜の五つ(現在で言うところの21時頃)から行われることが多かったという。同じく柳田によると、江戸時代であっても、同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、あるいは簡素なものであったが、村外の者と結婚する例が増加するに従って形式が複雑化し、神前式に近いかたちになっていた、と述べる。また、庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。祝詞であっても、現代の神前式のように「祝詞」が奏上されるようになったのは明治以降である[8]
吉原遊郭

吉原遊廓遊女と馴染みの客が熊野神社熊野三山)の熊野誓紙(熊野牛王符)3枚に2人の結婚を誓う旨を記載し1枚を神社に収めるという擬似的結婚がなされたという。
近・現代の変遷北白川宮永久王祥子妃の結婚式(1935年昭和10年)4月)式に向かう前に両親に別れの挨拶をする花嫁 1931年1938年(昭和13年)の華族の結婚写真。新郎が洋装で新婦が和装という姿は大正期以降しばしば見られた

上記のごとく以前は日本では、少なくとも庶民の間では、結婚式は自宅で行うことが多かった。神社で行う「神前結婚式」はそれ以前にも行われていた[9]ものの、数としてはごく少数であった。1873年には英国籍の中華系シンガポール人の貿易商タン・ベン・テキ(Tan Beng Teck/陳明徳)と日本女性の磯部和以(わい)が日本で最初とされる西洋式の結婚式を挙げている[10]

1878年明治11年)12月9日、出雲大社宮司千家尊福が神前式を行い、その内容が「婚禮式」として残されている[11]

1885年(明治18年)、元は日蓮宗僧侶であった田中智學によって創設された「国柱会」の前身「立正安国会」において仏教における結婚式(本化正婚式)の規定が定められた[12]。田中智学の思想「仏教夫婦論」により、明治維新以降の日本において夫婦の結婚(つまり一夫一妻制に基づく結婚)を制度化することは国家の近代化に不可欠であるとされた。この立正安国会による仏前結婚式が、仏教史上はじめての正式な結婚式である。


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