結城座
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江戸糸あやつり人形結城座創立者結城孫三郎(初代)
団体種類公益財団法人
設立2009年12月9日
所在地 日本 東京都小金井市貫井北町3-18-2
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分35.6秒 東経139度29分45.2秒 / 北緯35.709889度 東経139.495889度 / 35.709889; 139.495889座標: 北緯35度42分35.6秒 東経139度29分45.2秒 / 北緯35.709889度 東経139.495889度 / 35.709889; 139.495889
法人番号2012405002254
起源結城座
有限会社結城座
主要人物代表理事 田中克昌
結城孫三郎(12代)
活動地域 日本
主眼文化及び芸術の振興、児童又は青少年の健全な育成
活動内容江戸糸あやつり人形の公演、体験ワークショップなどの普及事業
ウェブサイトyoukiza.jp
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結城座(ゆうきざ)は、江戸時代前期頃に結城孫三郎(初代)江戸葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町付近)に創設した劇場。説経浄瑠璃が演目だった[1]がこれが衰退すると義太夫節人形浄瑠璃を演じるなどした[2]。その後は移転を繰り返し幕末まで続いた[3]。明治になり、結城孫三郎(9代)が、これまでの演目に加え、糸あやつり新派劇を演ずる劇団として組織し[1]結城孫三郎(10代)が東京都武蔵野市吉祥寺に再興した[3]。2009年に公益財団法人となり公益財団法人江戸糸あやつり人形結城座として存続している[4]
沿革
草創期

結城座の創設には諸説があり、江戸時代中期国学者であった津村淙庵が安永5年(1776年)頃から寛政7年(1795年)までの20年間[5]に渡り書き連ねた『譚海』に次の記載[6]がある。江戸浄るりの初は、結城孫三郎といふ説経ぶしを、ふき屋町にやぐらをあげて、興行せしがはじめ也。 ? 津村淙庵、譚海

結城孫三郎の名は元禄2年(1689年)刊の正本『越前国永平寺開山記』に見ることができるもののこれ以前にはなく、江戸浄瑠璃の正本でいえば正保5年(1648年)刊の佐渡七太夫『しんとく丸[7]の方が古い[8]。仮に『譚海』の指す結城孫三郎と『越前国永平寺開山記』の結城孫三郎が同一人物とした場合、寛文2年5月(1662年)刊『江戸名所記』の図中にある看板に『せつきやう 天満八太夫 おくり』の文字が見える[9]ことから、天満八太夫の『おくり』上演の方が古いこととなり整合しない。『譚海』の指す結城孫三郎とは代が違うこともありえる[10]

加藤曳尾庵(1763年ー没年不詳)は『我衣』の中で、天満八太夫を天和期の説経、佐渡七太夫を宝永期の説経、武蔵権太夫と結城孫三郎を元禄の説経浄瑠璃[11]として記している。代々神田雉子町の町名主であった斎藤月岑は、祖父斎藤長秋が寛政年中(1789年?1801年)より調査し草稿としてまとめたものを父の斎藤幸孝が郊外の調査を加え校正し刊行した[12]江戸名所図会』では『江戸鹿子』を引用しており天満八太夫、江戸孫四郎、江戸半太夫の説経[13]とあるものの結城孫三郎や結城座についての記載はない[注釈 1]が、斎藤月岑が天保10年(1839年)に脱稿し弘化4年(1847年)に刊行[17]した『声曲類纂』では『譚海』を引用し結城孫三郎を筆頭に天満八太夫、石見掾藤原重信[注釈 2]、佐渡七太夫豊孝、吾妻新五郎、江戸孫四郎らとともに列挙しているものの結城孫三郎の系図は不詳[19]と記している。杵屋勘五郎(3代目)が記した『大薩摩杵屋系譜』[注釈 3]を翻刻収録した『音曲叢書』にも結城孫三郎を説経浄瑠璃の元祖として系図左に天満八太夫、石見掾藤原重信[注釈 4]、系図下に佐渡七太夫豊孝、吾妻新五郎らとともに記述[21]しているが詳細な年代の記載はない。これとは別に、喜多村信節嬉遊笑覧(1822年脱稿[22]、1830年刊)には『広く行われしは重太夫[注釈 5]より始り、結城は操狂言の座元との称号にあれば[23]』との記述も見える。

関根只誠が記した明治33年(1900年)刊の『戯場年表』を基にして、伊原敏郎が追補した昭和31年(1956年)刊の『歌舞伎年表』は結城孫三郎が葺屋町に操人形座免許されたのを寛文5年7月とした。その中に次の由緒書[24]がある。「由緒書」に、寛文の頃操座御免と成り、其後中絶せしを、正徳年中結城孫三郎と申名題主の娘を、或紙商売せし甚兵衛と申者再興致し候。甚兵衛妻は祖孫三郎の孫の由。 ? 伊原敏郎、歌舞伎年表

秋山清(木芳)は寛文5年7月[25]と記し[注釈 6]黒木勘蔵もまた戯場年表を引用して寛文5年7月としたが劇場が堺町・葺屋町・木挽町5丁目に限定されることになった布告は明暦の大火がきっかけであり、これに前後して劇場の建設や移転があったことを指摘している[26]

これに対して、水谷弓彦は『譚海』の記述では捉えきれないとして、江戸時代前期の説経節の太夫であった天満八太夫が記載されている史料(役者三座詫[注釈 7]江戸総鹿子[14]、江戸図鑑綱目[15]、江戸咄[29]、役者絵つくし[30])を挙げ、定かではないとしながら、これら史料に天満八太夫と同じくそれぞれに記載されている江戸孫三郎、江戸孫四郎、結城孫四郎[注釈 8]は異なる人物ではなく、いずれも結城孫三郎の別名ではないかと考察[注釈 9]し、結城孫三郎(初代)であるかは不明としながらこれら史料にある江戸孫三郎および江戸孫四郎は延宝以降の人ではないか[32]とした[注釈 10]

明治時代の人形遣いであった桐竹紋十郎(初代)の随筆『桐竹紋十郎手記』には次の一節[35]がある。寛永十二年、二百六十年、 江戸さる若町結城座孫三郎 元ハふきや町御免御操り、矢倉まくニあかる、 ? 桐竹紋十郎、桐竹紋十郎手記

公益財団法人江戸糸あやつり人形結城座ではこの説を採っており[36][37]結城孫三郎(10代目)の自伝『糸あやつり』中の別章で『結城孫三郎人形座の歴史』を記した綿谷雪もこの説を採り上げている[38]。公益財団法人江戸糸あやつり人形結城座を取材した出版物にも同様の記載[39]があり、これら以外にもこの説を採る文献がある[40]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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