凡例結城 広綱
時代鎌倉時代中期
生誕承久3年(1221年)または安貞元年(1227年)
死没弘安元年6月23日(1278年7月14日)?
別名三郎、上野大夫判官
戒名新福寺殿教阿弥陀仏
墓所茨城県結城市浦町の称名寺
官位六位・兵衛尉、左衛門尉・検非違使、上野介、従五位下
幕府鎌倉幕府
氏族藤原秀郷流結城氏
父母父:結城朝広、母:安保実光の娘
兄弟広綱、祐広、関朝泰、金山時広、平山信朝、女子(小山長村室)、小川義広
妻二階堂行忠の娘、小田泰知の娘
子大内宗重、時広、盛広、小萱重広、小田川泰親
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結城 広綱(ゆうき ひろつな)は、鎌倉時代中期の武士・御家人。下総結城氏第3代当主。
通称は三郎(『吾妻鑑』[1])、上野大夫判官[2]。官位は、六位・兵衛尉、左衛門尉・検非違使、上野介、従五位下[2][1]。 第2代当主・結城朝広の子として誕生。母は安保実光の娘[1][3]。生年については、承久3年(1221年)と安貞元年(1227年)の二説がある[2]。 『吾妻鏡』では、建長2年(1250年)から文永3年(1266年)の間に名が見える[4]。建長6年(1254年)、祖父で結城氏初代の朝光が死去[5]。そのとき、広綱の父・朝広は65歳で、翌建長7年(1255年)11月には広綱に家督を譲っている[5]。 正嘉元年(1257年)7月、検非違使に任ぜられ、「上野大夫判官」と称した[2]。同時期、ともに検非違使だったのは足利家氏、二階堂行氏、二階堂行有など、東国の有力御家人だった[4]。文応元年(1260年)9月28日、上野介に任ぜられた[4]。 弘安元年(1278年)6月23日(「結城御代記」)、死去した[6]。家督は時広が継いだ[7]。 墓所は父・朝広や祖父・結城朝光、子・時広と同じ称名寺(結城称名寺)である。また、新福寺 妻は、二階堂行忠の娘、小田泰知の娘[7][8]。
生涯
婚姻関係
「結城系図」(「結城小峯文書」所収)[9]
二階堂行忠の娘
時広[8]
小田川泰親[注 1]
小田泰知の娘
小萱重広[10]
脚注
注釈^ 二階堂氏の養子になった[8]