経済協力局(けいざいきょうりょくきょく、英: Economic Cooperation Administration、ECA)は、マーシャル・プランを実施・管理するために1948年4月に設置され、1951年末に相互安全保障庁
(英語版)(相互安全保障法)に引き継がれるまで活動した、第二次世界大戦直後のアメリカ合衆国の対外援助を担当した機関である。国務省、商務省の両省に報告・従属した。後身の相互安全保障庁(英語版)は、その後、対外運用局(英語版)、国際協力局(英語版)を経て現在の国際開発庁へと至っている。 1947年6月5日、米国国務長官ジョージ・マーシャルはハーヴァード大学の学位授与式に出席し、記念講演を行った。この講演の中でマーシャルは、第二次世界大戦で被災した欧州に対し、米国は復興援助を供与する用意があると表明した(マーシャル・プラン)[1]。以後米国は、援助のあり方について検討を続けた。
設置
援助法案は4月3日に「1948年対外援助法 (Foreign Assistance Act of 1948)」として成立した[4]。ECAはその3日後に設置された[5]。 議会はECAを大統領直属の機関とし[6]、議会内に監視委員会を置くことを決定した。国連機関を実施機関とするか否かに関しては、3月に開催された欧州復興会議[7]が国連未加盟の西部ドイツ(米英仏占領区域。のちの西ドイツ)を援助対象として加えたことを理由として、国連機関を通さないことが決まった[8]。 ECA長官には、初代経済担当国務次官ウィリアム・クレイトンが就任するとの観測もあった[9]が、実際に長官となったのは、ステュードベーカー社長ポール・ホフマンであった[5][10]。 ハーヴァード演説直後の6月22日、トルーマンは米国がどれほどの援助負担に耐え得るかを調査するため、3つの大統領諮問委員会を設置した[11]。このうち商務長官アヴェレル・ハリマンが委員長を務める委員会には実業家や主力労働組合の代表が集ったが、ホフマンはこの委員会の一員として参加しており、早い時期からマーシャル・プラン立案に関わっていた。 ECAはワシントンに事務所を置き[12]、欧州経済協力機構 (OEEC) やその参加各国が作成した援助計画について審査と最終決定を成した[13]。外国政府や企業への融資に協力する銀行に対しては「約束状 (letter of commitment)」を発行し、ECAが債務の償還を保証した[14]。また、参加各国の首都には使節団が駐在し、事実上の第2大使館として機能した。使節団は駐在先の国の復興計画を支援すると共に、その国の政府が米国との援助協定を遵守しているかを検査した。 ワシントンの本部事務所とは別に、パリにもECAの代表事務所が置かれた。在欧ECAの代表にはハリマンが[15]、同特別代表代理には商務次官ウィリアム・フォスター
組織
在欧ECA代表事務所は、各国に駐在するECA使節団や各国政府と共同で作業を行った。在欧米国特別代表を務めたミルトン・カッツによると、ECAは軍事組織の命令系統を応用し、在欧ECA代表事務所に欧州での活動に関して幅広い権限と責任を委譲したため、効率的に援助事務が遂行できたという[18]。
しかし在欧事務所とワシントン事務所との業務範囲の境界は必ずしも明確ではなかったため、在欧事務所は幾度も越権行為を行い、また両者間ではしばしば重複人事が行われた。 被援助国は、受け取った援助のうち直接贈与分と同額の自国通貨を積み立てることが義務付けられた。この積立金を「見返り資金 1950年6月の朝鮮戦争勃発は、米国の対外援助政策を大きく転換させた。ベルリン封鎖、北大西洋条約機構 (NATO) 設立などを通じ、東西世界は緊張の度を強めていたが、朝鮮戦争によって両者間の本格的な軍事衝突が始まった。 1951年6月、ECAが議会に対して行った第13次報告は、「諸国自らの努力と1948年以来の経済援助を通じて獲得された利益を維持しかつ増大せしめながら、拡大する経済の枠内で西欧の再軍備を支援していくことが、経済協力局の目的である」[20]とし、ECAの目的が転換したことを自ら示した。 同年10月、米国では相互安全保障法が成立した[21]。これを受け、米国の対外援助は同法のもとに統合された。年末にはECAが廃止され[22]、これと前後して、新たに相互安全保障庁 (Mutual Security Agency) が設置された[23][24]。
見返り資金
廃止
年表
1947年
6月5日 - マーシャル、ハーヴァード大学で演説。対欧州援助構想を発表[1]
12月19日 - トルーマン、特別教書「欧州復興計画の概要」を議会に提出。経済協力局 (ECA) 設置を提案[3]