終戦の日
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終戦の日(しゅうせんのひ)は、第二次世界大戦終結(終戦)日の日本に於ける呼称である。

アメリカ合衆国など多くの国々では一般的に降伏文書に調印した1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)が、日本では終戦記念日は8月15日と認識されている[1]。第二次世界大戦戦勝国にあたるいくつかの国では対日戦勝記念日が祝われる(当該記事も参照)。

1948年昭和23年)に日本の国会でこの日を「追憶の日」とする議論があった[2][3]
日本終戦記念日に行われる日本政府主催の全国戦没者追悼式

日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日(せんぼつしゃをついとうしへいわをきねんするひ)」として、全国戦没者追悼式を主催する。市井では終戦記念日(しゅうせんきねんび)や終戦の日(しゅうせんのひ)と称され、政治団体非営利団体 (NPO) らが平和集会を催す。

日本では太平洋戦争日中戦争)の終結日に諸説あり、下記する。
1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。日本政府が武装解除アメリカイギリス中国などの連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソビエト連邦などの東側諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日は、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}新聞[要追加記述]は、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と称した。
歴史詳細は「日本の降伏」を参照

1945年7月26日に、英華米の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市に原子爆弾が投下され8月8日未明にソ連対日宣戦布告8月9日に広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日)御前会議(8月14日午前11時/日本標準時)終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)小田原空襲後の市街地(8月15日)

8月10日午前0時3分[4]から行われた御前会議での議論は、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武軍令部総長は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。

しかし、唯一の同盟国となっていた大ドイツ国政府が5月8日に無条件降伏したことで、イギリスとアメリカ、オーストラリアカナダなどの連合軍は日本本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の宣戦布告により日本への侵攻を開始しており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された。

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。しかしその後も日本政府と軍内部、特に鈴木首相や東郷外相らと阿南陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、天皇の元の会議で決定されたにもかかわらず、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。

10日午前11時からソ連大使館側の要請によって貴族院貴賓室において東郷外相とヤコフ・マリク駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷外相は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。10日夜にソ連軍による南樺太への侵攻も開始された。

ポツダム宣言を受諾することが日本政府で決定されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは連合国にとっても同様であった。つまり10日の午前8時の日本政府のポツダム宣言受諾より、玉音放送、つまり日本軍戦闘停止の勅令が下る15日正午までの5日間の「日本陸海軍の為の敗戦調整期間」に亡くなった両軍の戦闘員と民間人は、「無駄死に」といわれることがある。

12日午前0時過ぎに連合国はアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った。その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。

13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目に宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍と政府では「日本の回答が遅い」という意見が起きており、13日の夕刻に日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している。さらに日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民及び前線に伝えなかったために、日本政府の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍との戦闘や爆撃は継続され、千葉(下記参照)や小田原熊谷土崎などへの空襲が継続された。日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領(8月14日/東部標準時玉音放送を聞く日本国民(8月15日12時)

14日午前11時より行われた再度の御前会議では、まだ阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南陸相や梅津陸軍参謀総長は陸軍内でクーデターが起こることを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、14日の夕方に閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜に昭和天皇による玉音放送が録音された。


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