細川頼之
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例細川 頼之
細川頼之像(地蔵院蔵)
時代鎌倉時代後期 - 室町時代初期
生誕元徳元年(1329年[注釈 1]
死没明徳3年/元中9年3月2日1392年3月25日
改名弥九郎(幼名)、頼之
戒名永泰院殿桂巌常久大居士
墓所京都府京都市地蔵院
分骨墓のある菩提寺は香川県高松市の立善寺
愛知県岡崎市蓮性院
官位従四位下武蔵守相模守
幕府室町幕府 管領、中国管領、四国管領
阿波伊予備後讃岐土佐守護
主君足利尊氏義詮義満
氏族京兆家
父母父:細川頼春、母:黒沢禅尼
兄弟頼之、詮春頼有頼元満之
妻正室:春日局(持明院保世娘)
子養子:頼元基之、猶子:河野通之
テンプレートを表示
細川頼之の生誕地である細川城址(愛知県岡崎市)

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名室町幕府2代管領。官位従四位下、始め武蔵守相模守[1]細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。

観応の擾乱では将軍足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波讃岐伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の3代将軍義満の管領として幕政を主導、半済令の施行や南朝との和睦などを行った。義満が長じた後、康暦の政変で失脚したが、その後赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元とその子孫が斯波氏畠山氏と共に三管領として幕政を担った。頼元以後代々右京大夫唐名右京兆)に任ぜられたことから、この系統は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる。
生涯
観応の擾乱から四国平定まで

三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)にて細川頼春の子として誕生。幼名は弥九郎。

史料上の初見は観応の擾乱における阿波国での軍事行動となる。初代将軍尊氏に従う父のもとにあったが、観応元年(正平5年、1350年)に阿波の国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。阿波在陣中の観応3年(正平7年、1352年)に南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、将軍継嗣義詮に属し、讃岐国の軍勢を率いる弟頼有らと共に男山合戦に参加して南軍を駆逐した。その間に阿波の南軍が再び活発になると、頼之は父の阿波守護を継承して領国経営に従事し、小笠原氏伊予国河野氏、国人勢力らとの戦いの中、次第に四国における領国支配体制を固める。

この頃、南朝と通じて山名時氏ら反幕府勢力を結集させ、中国地方から伊予にかけて勢力を及ぼし、京都を脅かしていた足利直冬(義詮の異母兄)に対し、義詮が征討の軍を起こした際は、阿波の頼之は伊予への発向が命じられ、文和3年(1354年)には河野通盛に代わって伊予の守護に補任された。

義詮軍は翌年進発したが、越前国守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還されたため、頼之は引き返した義詮と共に京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わった。南軍駆逐後は従兄の清氏と共に三宝院賢俊を訪ねるなど京都に滞在し、右馬頭に任じられた。

延文元年(1356年)に再び直冬征討軍が起こされると、頼之は備後国守護に補任され、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する大将を命じられた。この時頼之は、闕所処分権を将軍尊氏に拒否されたため、就任を固辞し阿波へ下国しようとしたが、従兄清氏の説得で帰京したという。頼之は、阿波の南軍に対しては有力被官新開氏を守護代として備えつつ、自らは中国地方へ発向して備前国備中国・備後・安芸国・伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与などの軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として中国大将、地方統轄者としては中国管領と呼ばれており、長門探題として中国地方に勢力を広げた直冬に対抗させる幕府の意図があったとも考えられている。

頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定しているころ、中央では将軍尊氏が死去して義詮が2代将軍となり、頼之の従兄清氏が執事に任命された。だが、貞治元年(1362年)に清氏が斯波氏佐々木道誉らとの政争に敗れ南朝側に奔って阿波へ下ったことから、頼之は義詮から清氏討伐を命じられた。7月に讃岐国へ移った清氏勢を、頼之は宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)の兵を率いて白峰城で破った。清氏はこの戦いで敗死した。

清氏討伐中、再び活発化した直冬勢力だったが、その有力な支持勢力だった大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰順していたため、やがて鎮圧された。時氏の帰順工作には頼之も関わっていたとも言われる。頼之は、中国地方の安定により中国管領を解かれたものの、本国の阿波国に加えて讃岐・土佐国の守護を兼ね、さらに伊予の河野通朝を追討して四国を平定した。
管領時代

貞治5年(1366年)に執事(管領斯波義将とその父高経が失脚する(貞治の変)。頼之は幕府に召還され、佐々木道誉や赤松氏ら反斯波派の支持や鎌倉公方足利基氏の推挙もあって、死去直前の義詮の命により管領に就任した。頼之は当時11歳の新将軍義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わった。内政面では倹約令など法令の制定、応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令応安大法)を施行する。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制した。

南朝勢力に対しては、応安2年(1369年)に楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し[注釈 2]、翌年には今川貞世(了俊)を九州探題として派遣して懐良親王ら九州の南軍を駆逐させ、平定を推し進めた。

応安3年(1370年)8月には、北朝後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、後光厳の兄の崇光上皇が実子の栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef