細川護熙
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日本政治家細川 護熙ほそかわ もりひろ
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1938-01-14) 1938年1月14日(86歳)
出生地 日本東京府東京市
出身校上智大学法学部卒業
前職朝日新聞社社員
東北芸術工科大学学園長
京都造形芸術大学学園長
現職芸術家陶芸家
永青文庫理事長
所属政党(無所属→)
自由民主党→)
日本新党→)
新進党→)
フロム・ファイブ→)
民政党→)
民主党→)
無所属
称号法学士上智大学1963年
配偶者細川佳代子
子女細川護光
親族細川護久(曾祖父)
池田詮政(曾祖父)
近衞篤麿(曾祖父)
細川護立(祖父)
近衞文麿(祖父)
細川護成(大伯父)
近衞秀麿(大叔父)
南部利英(従伯父)
サイン
公式サイト ⇒細川護熙 公式ホームページ
第79代 内閣総理大臣
内閣細川内閣
在任期間1993年8月9日 - 1994年4月28日
天皇上皇(明仁)
衆議院議員
選挙区(旧熊本1区→)
熊本1区
当選回数2回
在任期間1993年7月18日 - 1998年5月7日
参議院議員
選挙区(旧全国区→)
熊本県選挙区→)
比例区
当選回数3回
在任期間1971年7月4日 - 1983年2月
1992年7月26日 - 1993年7月
第10・11代 熊本県知事(公選)
在任期間1983年2月11日 - 1991年2月10日
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細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年昭和13年〉1月14日 - )は、日本政治家陶芸家茶人第79代内閣総理大臣

朝日新聞記者を経て、政治家となり、参議院議員(3期)、熊本県知事(第45・46代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣第79代)、日本新党代表(初代)、フロム・ファイブ代表(初代)、学校法人瓜生山学園京都造形芸術大学学園長(2011年 - 2014年)を歴任した。熊本県出身で総理大臣に就任した2人目の人物。
概要

肥後熊本藩細川家の第18代当主。

上智大学法学部卒業。学位法学士朝日新聞社の記者を経て第9回参議院議員通常選挙自由民主党公認候補として全国区から立候補し初当選。その後、熊本県知事に転じ、2期8年務めた。知事退任後、日本新党を結成して代表に就任、1992年参院選参議院議員として再び国政に戻る。

1993年7月の第40回衆議院議員総選挙に鞍替え立候補し、衆議院議員に初当選。非自民・非共産連立政権の首班となり、38年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現させ、「新党ブーム」を巻き起こして55年体制を崩壊させた。熊本県出身の総理大臣は清浦奎吾以来69年ぶり。佐川急便より一億円借り入れ事件を追及され総辞職し、総理としての任期は8ヶ月の短命に終わったが、折からの課題であった政治改革を成就させ、小選挙区比例代表並立制政党助成制度を導入した[1]新進党の結党に参加するものちに離党、フロム・ファイブを起ち上げた。以降、民政党を経て民主党に合流。還暦を機に議員辞職し、政界引退後は陶芸家として活動する。以後政治とは距離を置いていたが、2014年の東京都知事選に出馬した(落選)。

2022年1月9日に海部俊樹が死去したことに伴い、存命中の内閣総理大臣経験者では最古参となった(最高齢は村山富市のまま)。
経歴
生い立ち

関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名細川忠興の直系子孫で、旧熊本藩細川家第17代当主・細川護貞と、五摂家筆頭近衛家の第30代当主で昭和初期に貴族院議長内閣総理大臣を歴任した近衛文麿の次女・温子との間の長男として、東京府東京市(現在の東京都千代田区)に生まれる(ただし本籍地熊本県熊本市に置いている)。

学習院幼稚園清泉小学校から栄光学園中学校を経て、学習院高等科卒業。学習院高等科での同級生に菅孝行がいる。大学入試では京都大学を受験するが失敗。一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、上智大学法学部へ進学。

卒業後、朝日新聞社に入社。鹿児島支局では鹿児島県警察記者室に入っていたが、ある時記者室で財布を無くしたことがあった。「当時の金銭感覚では考えられない大金」だったが、細川は「財布は買い直せば良い」という表情だったという[2][リンク切れ][要出典]。その後本社に戻って社会部記者となり、警察担当の遊軍記者として東大紛争金嬉老事件などを取材した[3]
中央政界へ

その後、朝日新聞社を退職。かねてから政界進出の意志を持っていたが、松前重義日本社会党)に「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」と勧められ、1969年に行われた第32回衆議院議員総選挙旧熊本1区から無所属で出馬した。しかし父の護貞は政界入りに反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。文芸春秋での実弟・忠Wの発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時、三笠宮崇仁親王の長女・ィ子内親王と結婚したばかりの忠Wより知名度が低く、忠W自身も政界進出には否定的だったという。

細川自身は保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に藤崎久男を擁立したが落選)。首相佐藤栄作に面会すると、田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」と言われ、いわゆるどぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという[3]1971年第9回参議院議員通常選挙では全国区から自由民主党公認で出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の七日会(田中派)の旗揚げに参加する。2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、大蔵政務次官や党参議院副幹事長を歴任する[4]
地方政界へ

2期目の任期中、熊本県知事選挙への出馬を表明。現職の沢田一精と自民党の公認を争った末に調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年務める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。NHKアナウンサーを退職した鈴木健二熊本県立劇場館長として迎えた。また、熊本朝日放送の開局にも尽力した。

知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。
新党結成

熊本県知事3選も確実視されていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、1991年2月、2期8年限りで知事を退任。活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。

1992年文藝春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自由民主党)と革新政党(日本社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、第16回参議院議員通常選挙比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。

宮澤内閣の下で政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革実現の目途は立たず、1993年5月、ついに首相の宮澤喜一がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と断言し、決意を示したものの党内の根強い反対論を覆せず、再び断念に追い込まれた。その結果、宮澤内閣に対する不信任決議案が自民党内で政治改革を推進する羽田派の賛成により衆議院で可決され、宮澤は解散総選挙を決断(嘘つき解散)。これと前後して一部自民党議員が集団離党し、新生党羽田孜小沢一郎ら羽田派)、新党さきがけ武村正義鳩山由紀夫ら)を結成した。

この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた1993年東京都議会議員選挙で、一気に20議席獲得と大躍進した。またこのころ、武村正義や田中秀征が主導した、行政の制度改革を勉強する会である「制度改革研究会」に運営委員として参加している。
細川内閣1993年9月27日国際連合総会にて1993年10月ロシア大統領ボリス・エリツィン(手前左)と1993年11月APEC首脳会議にてアメリカ大統領ビル・クリントン内閣総理大臣に就任したころの肖像「細川内閣」も参照


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