細川綱利
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 凡例細川綱利
細川綱利像(永青文庫蔵)
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛永20年1月8日1643年2月26日
死没正徳4年11月12日1714年12月18日
別名六丸(ろくまる)(通称)
戒名妙応院殿雲岳宗龍大居士
墓所熊本県熊本市の妙解寺
京都府京都市大徳寺高桐院
官位従四位下侍従越中守左近衛権少将
幕府江戸幕府
主君徳川家光家綱綱吉家宣
肥後熊本藩
氏族肥後細川氏
父母細川光尚、清高院
兄弟綱利、利重
松平頼重養女犬姫
吉利松平頼路正室、密姫
細川利重養女、吉姫、松、清水勝貞室ら
宣紀久我惟通室、初
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細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名肥後国熊本藩3代藩主。熊本藩細川家4代。

吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、水前寺成趣園を拡大整備したこと、元禄赤穂事件後に大石良雄ら赤穂義士を預かり歓待したことで知られる。また、武芸者を多数召し抱えるなどで、藩財政を悪化させ莫大な債務を残した。
生涯

2代藩主・細川光尚(光利)の長男として誕生した。

正保2年(1645年)11月11日、3代将軍徳川家光に初御目見する。慶安2年(1649年)12月28日に父・光尚が死去したが、六丸こと綱利は6歳と幼かったため、通常であれば細川家は改易されかねないところであった。しかし光尚が、幕府に対して肥後領地返上の遺言をしたためており、徳川家の覚えがめでたかったことと、細川家臣の懸命の奔走もあって、綱利へ相続させるべきか否か幕府内で議論された。結局、慶安3年(1650年)4月18日に綱利への相続が認められたが、領地の支配は幕府目付と親戚の小笠原忠真豊前国小倉藩主)の監督を受けた。承応2年(1653年)12月11日に4代将軍徳川家綱から偏諱を受け、父の旧名の一字と組み合わせて、綱利と改名した。また従四位下侍従・越中守に叙任した。

寛文2年(1662年)3月には弟利重に5,000石を分与し、さらに寛文6年(1666年)7月には新田3万5,000石を内分支給する形で江戸鉄砲洲に定府熊本新田藩を立藩させた。

寛文3年(1663年)6月、正室・犬姫と結婚した。元禄9年(1696年)11月5日、左近衛権少将の官位を加えられた。また元禄10年(1697年)6月、熊本新田藩主利昌の弟(綱利の甥)利武に5,000石を分与した。

宝永3年(1706年)4月、嫡男の吉利が死去したため、利武(宣紀と改名する)を養子に迎える願いを出し、宝永5年(1708年)1月に認められた。

正徳2年(1712年)7月11日に隠居した。正徳4年(1714年)11月13日に死去した。享年72。熊本の護国山妙解寺に葬られた。
細川血達磨

元禄11年(1698年)年9月6日、中堂火事で江戸城に近い上屋敷が炎焼、大川友右衛門は切腹して主家の重宝だった掛軸をみずからの腹中に収め、命にかえてみごと守り通した。大川の死後、綱利はその掛軸を焼失を免れた表座敷に飾り、来客に披露したという。

綱利と大川が男色関係にあった[1]ともされ、講談『細川血達磨』として読みが行なわれている。大谷日出夫の主演で映画化もされた。なお、明暦の大火の時とする説もあるが、綱利はまだ14歳である。
赤穂浪士お預かり

元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ち取って吉良邸を出た赤穂46士[2]は、大目付仙石久尚に自首しに向かった吉田兼亮富森正因の2名と別れて、他は主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。

一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より、大石良雄始め赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、始め泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。しかし、その後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中に怪我人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。

この間、綱利は義士たちを一目見たいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は毎回、湯を入れ替え、「湯がやわらかくなるから」と全員をまとめて入れた。「洗濯ものが庭先に干してあるのは見苦しい」として下帯も週に二度は与えた。後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理も全てが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。

綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召し抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。

このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。しかし、実際には水野家では義士を「九人のやから」と呼び、「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」とまるで人間扱いしない[3]薄情な記述がある。(『水野家御預記録』)

細川邸では、潮田や両大石(良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供されたを、様子を見に来た堀内にたらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や煙草、下戸向けの茶や菓子を出さなかったので義士たちから文句が出た。


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