細川晴元
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 凡例細川 晴元
細川晴元像「細川右京大夫晴元」
時代戦国時代
生誕永正11年(1514年
死没永禄6年3月1日1563年3月24日
改名聡明丸(幼名)→晴元
別名六郎(通称
戒名龍昇院殿前右京兆心月清公大居士
墓所大阪府高槻市普門寺
官位従四位下右京大夫
幕府室町幕府山城摂津丹波讃岐土佐守護
主君足利義晴義輝
氏族細川京兆家
父母父:細川澄元、母:清泰院
兄弟晴元、持隆?、畠山義堯正室、有馬重則正室
正室三条公頼
継室六角定頼
昭元晴之?、娘(朝倉義景正室)、
娘(飯尾定宗室)、娘(顕栄室)
養女:如春尼
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細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、戦国時代武将大名山城国摂津国丹波国讃岐国土佐国守護細川京兆家17代当主。
概要

父は細川澄元、母は清泰院、嫡男は細川昭元。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄本願寺法主・顕如の義兄に当たる人物でもある。

当時、畿内で内乱状態にあった細川京兆家を纏め、自らの政権を確立させたが家臣の三好長慶の反乱で没落、勢威を取り戻せないまま没した。管領に就任したとする説があるが、史実ではない。(詳細は後述及び管領項目参照のこと)。

晴元の室町幕府12代将軍足利義晴偏諱を受けたものであるが、義晴の偏諱を受ける前や、義晴と敵対関係であった時期には六郎の通称仮名)を諱の代わりに用いた。本記事での呼称は晴元で統一する。
生涯
高国との決戦細川高国

永正11年(1514年)に細川澄元の子として誕生、6年後の永正17年6月10日1520年6月24日)、同族の細川高国との争いに敗れ阿波国へ退去していた父の死去により、晴元は7歳で家督を継承した。ただ、細川京兆家の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の継承時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。一方、仇敵の高国は将軍足利義稙を追放、代わって足利義晴を将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。

だが大永6年7月13日1526年8月20日)、従弟の細川尹賢からの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の兄弟(波多野元清柳本賢治)達に背かれ、勢力の内部分裂を自ら招いた。そんな収拾のつかない敵方の窮状につけ込むべく、13歳の晴元は三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。

高国と晴元の争いは、細川氏の家督を奪い合う私闘であるにも係わらず、高国は現職の管領である事を利用して将軍・義晴を擁立していたために、名目上の官軍を称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、保身に奔る味方に離反される恐れを孕んでいた為、晴元側も義晴の弟・足利義維を擁立する事で備えている。そもそも大永3年(1523年)に足利義稙が阿波国撫養に下向してきた時に細川讃州家の助力を得ようとしたが、当時の晴元は10歳の少年であったため助力することかなわず、失意のうちに義稙は没した。その後、当時の阿波守護で晴元の従弟・細川持隆は阿波の細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元を一緒に養育していた(ただし、近年になって馬部隆弘は持隆は晴元の実弟(澄元の次男)であったとする説を提示している[1])。

大永7年2月12日1527年3月24日)、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とすと、和泉国を本拠とした晴元は、都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を創設した[2][3][4]

ここまで三好元長の功績は抜群だったが、元長は柳本賢治と傍流の三好政長らと対立し、晴元も元長が細川高国との和睦を図ったことで不満を抱き賢治らの讒言を受け入れていた為、享禄2年(1529年)に憤慨した元長の阿波下向という事態を招き堺公方府の軍事力を低下させてしまった。高国も備前国守護代浦上村宗と結託して再起を図り挙兵、迎撃に向かった賢治は享禄3年(1530年)に高国の刺客に暗殺され、勢いに乗った高国・村宗らが摂津国へ侵攻して堺公方府を窮地に立たせた。

享禄4年(1531年)になると細川高国に摂津の大半を制圧された上、京都も高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府は攻撃の危機に晒されるものの、同年2月に三好元長と和睦。3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む(中嶋の戦い)と、6月4日7月17日)には来援の赤松政祐(晴政)による高国への支援を装った騙し討ちが決め手となって、細川高国・浦上村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。

戦後、高国には逃亡されるも6月5日には潜伏中の摂津国尼崎で捕縛し、8日には尼崎の広徳寺で自害させ(大物崩れ)、亡父の仇を討った[5][6][7]
権力基盤の確立に向けて足利義晴

それまでの権力者だった細川高国を滅ぼした晴元だったが、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換。現将軍・義晴と和睦し、その管領に就こうとした為に三好元長と対立してしまう。細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良かったという事である。共通の敵・高国を滅ぼして僅か2ヶ月で内部対立が表面化した堺公方府であったが、高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集した。

享禄5年(1532年)、晴元が肩入れする木沢長政を攻撃する元長を排除すべく、茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして本願寺第10世法主証如一向一揆の蜂起依頼を提言。証如の快諾で蜂起した一揆軍によって自らの手を汚す事なく元長を堺で敗死させただけでなく、不和になった足利義維の阿波への放逐にも成功した(飯盛城の戦い)。長政の主君で、元長の支援を受けていた畠山義堯も巻き込まれ、一向一揆に討たれている。

内部の反対派を排除し、将軍・義晴と和睦できた晴元は、蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に神経を費やした。一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めた(山科本願寺の戦い)。山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、天文2年(1533年)に一向一揆の反撃に遭い堺から淡路国へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、天文4年(1535年)に和睦した(享禄・天文の乱)。


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