細川政権_(戦国時代)
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細川京兆政権
細川京兆家家紋・松笠菱(細川向かい松)
概要
創設年1493年
解散年1549年
対象国 日本
地域山城摂津丹波土佐讃岐阿波
代表細川政元
細川澄之
細川澄元
細川高国
細川稙国
細川晴元
細川氏
備考
室町幕府が健在だった為、中央政権とは言えない。

室町幕府 三好政権

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細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した、日本戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川氏宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴(ときには対立)しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。
歴史
クーデターによる政権奪取「明応の政変」を参照足利義材(足利義稙)

応仁の乱の最中、細川氏本家京兆家当主で室町幕府管領として大きな力を持っていた細川勝元が死去し、このことを受けて嫡男の政元が跡を継いだ。とは言え、政元はまだ7歳であり実際には後見である細川政国(典厩家)が主宰し、内衆の中から選ばれた評定衆による合議によって方針が定められた。内衆とは細川京兆家直属の家臣のことで、室町幕府の奉行衆を模した行政官的な役割を果たす人々であった。応仁の乱によって自領の経営が危なくなった斯波氏・畠山氏などの有力大名は京都を離れて領国に帰還したが、細川京兆家の領国は摂津丹波土佐と、土佐を例外とすればいずれも京都周辺であり、細川氏分家・庶流の領国も和泉備中讃岐阿波と比較的京都に近い国が多かった。そのため、京兆家以下の当主は京都にいたまま、内衆を守護代や代官として派遣することで現地の統制を行うことが可能であり、常に幕府の運営に直に関与できる強みを有した。半面、京都の情勢の影響を常に強く受け続けることになった。

政元は長享3年(1489年)に9代将軍足利義尚が陣没して将軍継嗣問題が起こると、次期10代将軍に義尚の従兄の天龍寺香厳院主清晃堀越公方足利政知の子で後の足利義澄)を推していたが、義尚の叔父足利義視や元管領畠山政長との政争に敗れて義視の子で義尚の従弟である義材(後の義稙)が10代将軍に擁立された。

延徳3年(1491年)1月に義視が死去すると、幕政は畠山政長によって独占されることとなった。明応2年(1493年)2月、政長は河内平定のため、将軍義材を擁した幕府軍を率いて畠山義豊(応仁の乱時の政長の宿敵畠山義就の子)を攻めた。そしてこの遠征中に、京都の留守を任されていた細川政元は十分な根回しのもと日野富子伊勢貞宗と結託してクーデターを決行する(明応の政変)。4月に清晃を京都にある自邸に招き入れ、実質的に11代将軍足利義高として擁立したのである。

一方、河内にあった幕府軍は京都の政変を知ると動揺して離反が相次ぎ、義材の奉公衆も富子と貞宗の勧告で多くが義材を見捨て帰京、政元は討伐軍を送り義材は丹波守護代の上原元秀に捕縛されて京都龍安寺に幽閉され、畠山政長は自害した。こうして政元は将軍を傀儡として擁立することで、細川政権を成立させたのである。この政権は細川京兆家当主の官位・右京大夫唐名から、「京兆専制」とも呼ばれる。
政元政権細川政元

しかし、政元の誤算は義材に逃亡されたことにあった。政元は将軍殺しの汚名を嫌い、義材を小豆島あたりに流罪にしようと考えていたのだが、義材は畠山政長の配下だった越中守護代神保長誠による手引きで京都を脱出してしまったのである。このため、明応8年(1499年)には義材に呼応した政長の子尚順ら諸大名の攻撃を受けるが、政元はこれを破り、義材は周防大内義興のもとに逃亡した。それまで三管領として細川氏と競り合ってきた畠山氏・斯波氏の力は弱体化され、細川政元が管領職を独占して幕府の実権を握り、比叡山延暦寺を焼き討ちするなど各地で反抗勢力を攻めたり細川氏の被官としたりして勢力拡大を図り、京兆専制を打ち立て細川氏の全盛期を築くこととなった。

一方、将軍義高(後に義澄と改名)を擁立して覇権を掌握した政元にも問題は起こった。政元は明応の政変において活躍した上原元秀の能力を評価して重用したが、それが評定衆を構成する他の内衆からの反感を買って元秀は殺害されてしまう。更に山城守護職の地位を巡って分家の阿波守護家細川義春と幕府政所執事伊勢貞陸が争った際に政元が幕府内に大きな権力を持つ貞陸に妥協して貞陸を新しい守護にしたところ、貞陸は細川氏の被官が多く加わっている山城国一揆を弾圧して解散に追い込み、更に義春は阿波に帰国して家臣の三好之長ら国人を起用して現地内衆に対抗させるなどの反抗的な態度を示すようにもなった。上杉本 洛中洛外図屏風「細川殿」

政元は元服前から修験道に凝っており、その後、修験道の修行に出かけて行ってしまい、政務を家臣任せにしていることもある(細川両家記より)。幸いにして政元には安富元家薬師寺元長といった優秀な家臣団が存在していたこと、政元自身も文亀元年(1501年)に定めた内衆の統制と合議に関する「式条」を制定していたことから、とくに政務が乱れることは無かった。しかしこのような政元の奇行や後述の養子問題で家臣の一部が反発し、永正元年(1504年)には摂津守護代薬師寺元一(薬師寺元長の子)と赤沢朝経による反乱が起こるなどして、これを政元は鎮圧したが、次第に細川氏内部に不穏な動きが起こり始める。

政元は女性を側に近づけず妻帯もしなかったので実子がいなかった。政元には弟もおらず家督を継がせられるような甥や従兄弟も京兆家にはいなかったため、養子として関白九条政基の末子である細川澄之(将軍義澄の母方の従兄弟)を迎えたが、やがて細川氏庶流や内衆などが細川氏と血のつながらない養子に将来細川宗家家督が譲られることに反発したため、分家の阿波守護家から細川成之の孫細川澄元を2人目の養子に迎えた(成之の子で澄元の実父である義春は既に病死)。なお、前述の三好之長も澄元に付けられて上洛し、政元に仕えることになる。さらに後には同じく分家の野州家から細川高国も養子に迎えるなど(ただし高国については養子になった時期が不明で政元の死後という説もある)、3人の養子を迎えたことがかえって家督争いを引き起こす結果となった。なお、前述の反乱を起こした薬師寺元一は澄元の養子入りにおいて主導的な役割を果たしたとされているが、これは結果的には澄元の排除には至らず、却って阿波細川家の離反を恐れる内衆による澄元擁立の動きを強めることになる。

永正3年(1506年)、政元はさらなる自らの勢力拡大を目指して河内・大和丹後など諸国に軍を派遣した。この遠征は翌年になっても続いたため、政元の身辺には軍がいないという事態が続いた。そして永正4年(1507年)6月23日、政元は澄之を推す薬師寺長忠(薬師寺元一の弟)・香西元長らによって暗殺されてしまったのである(永正の錯乱)。
澄之政権?澄元政権細川澄元

政元暗殺後の6月24日、長忠と元長は細川澄元の暗殺も謀ったが、澄元は家臣・三好之長の手引きによって近江に脱出した(之長は澄元の養子入りの際に阿波細川家から同行して政元の家臣に加えられていた)。こうして長忠と元長は澄之を擁立したのである。

しかし近江に逃れた澄元・之長らは近江の国人衆と他の細川一族を味方につけ、8月1日には京都に侵攻する。この戦いで澄之は敗れ、遊初軒(澄之の自邸)で自害した。長忠・元長らも自害し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。

澄之を自害に追い込んだ澄元は細川京兆家の家督を継いだ。ところがこのような内紛が周防に逃れていた足利義尹(義材)と大内義興のもとに知らされると、義興は九州・中国の諸大名を動員して上洛を開始したのである。澄元は高国に命じて義興と和睦しようとしたが、高国はその意に反し義興と通じて寝返った。このため、和睦交渉は決裂する。


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