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凡例長岡 休無 / 細川忠隆 / 長岡 忠隆
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正8年(1580年)
死没正保3年8月1日(1646年9月10日)
改名熊千代(幼名)、長岡忠隆、休無(隠居号)
別名与一郎(通称)
戒名泰仰院殿前拾遺瑞巌宗祥大居士
墓所京都府京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺高桐院
京都府京都市上京区寺町通鞍馬口下ル高徳寺町の西園寺竹林院(分骨墓)
熊本県熊本市西区島崎3丁目24千原台の瑞巌寺跡地内膳家墓所(分骨墓)
官位従四位下・侍従
氏族肥後細川氏、長岡内膳家
父母父:細川忠興、母:明智玉(ガラシャ)
兄弟長、長岡休無、興秋、古保、忠利、多羅、万、立孝、興孝、松井寄之
妻正室:春香院
継室:長谷川求馬娘・喜久
子熊千代、徳、吉、福、万、長岡忠恒、
長岡忠春
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長岡 休無(ながおか きゅうむ) / 細川 忠隆(ほそかわ ただたか) / 長岡 忠隆(ながおか ただたか)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。細川忠興とガラシャの間に生まれた長男。官位は従四位下・侍従。肥後細川家庶流細川内膳家の家祖。
天正15年(1587年)、羽柴名字であったことが確認される[1]。
慶長9年(1604年)の廃嫡後は長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号した[注釈 1]。なお、忠隆は祖父が1573年に長岡に改姓し[3]、父が細川姓に復したのは廃嫡後の1615年[4]なので、細川忠隆とは生前に一度も名乗ってはいない。 文武に優れ、祖父・細川藤孝にも可愛がられていた。慶長4年(1599年)に幽斎が烏丸光広や中院通勝らを招いて天橋立見物の歌会をした際にも加わり、忠隆が詠んだ和歌短冊が丹後国の智恩寺に現存する[5]。 慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。
生涯
廃嫡事件