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やノートページでの議論にご協力ください。ミニアチュール(仏:miniature)または彩画(さいが)・細密画(さいみつが)とは、古代・中世の絵付き写本に収録された挿絵である。語源はラテン語のminium(鉛丹)。初期の写本の赤色インクに鉛丹が使われていたことにちなむ。中世のミニアチュールは小さいものが多かったため、「minute(微細な)」などが語源であると誤解され、小さいサイズのイラストを指してミニアチュールと呼ばれるようになった。ミニアチュールの翻訳語として細密画という表現が採用されたのもこれに由来する[1]。
3-6世紀 イタリア・東ローマ天使に出会うアブラハムのミニアチュール。コットン創世記(5世紀-6世紀)より
現存する最古のミニアチュールはアンブロジア版イーリアス(英語版)(3世紀ごろの、イーリアスの挿絵付き写本)から切り出された一連の彩色画である。これらの一連のミニアチュールは古代ローマの絵画と似た技法で描かれ、扱われ方も同様である。作品それぞれの質にはかなりばらつきがあるが、人物の書き方などは古典らしい情趣があり、これ以前の技巧から影響を受けているものと推測される。背景に関しては様式的な表現ではなく、ポンペイその他ローマ時代のフレスコ画に見られるような、不完全ながらも自然に学ぼうとする古典的なスタイルがとられているようだ。
芸術的に見て価値があるのは、バチカン版ヴェルギリウス(英語版)として知られる、5世紀ごろのバチカンのヴェルギリウス写本である。アンブロジアの断片よりも大きなサイズで描かれている上に保存状態もよく、よって手法や技術の検証がしやすくなっている。描写はきわめて古典的な様式であることから、バチカン版ヴェルギリウスのミニアチュールはそれ以前の写本からそのまま模写したものと思われる。着色の技法についてはよく分かっていない。というより、初期の写本のミニアチュールの色遣いはどれもほとんど同じなのである。異なるシーンをひとつのページに配置する方法はこれ以前の作者が考案したと思われるが、この技法はその後のミニアチュールの伝統に大きく影響した。描き方の特徴としては、まずページ全体に背景が書き込まれた後、あきらかに上書きする形で大きな人や物が描かれ、その上に小さいディテールが書き込まれている。(絵描きのアルゴリズム(en)。)また、遠近法的な効果を高めるため、人や物は水平線上に整列しており、線より上の物は下の物に比べて小さく描かれている。ヴィエナ・ディオスコリデス(英語版)(6世紀前半)より、七人の医者のミニアチュール
東ローマの画派では、自然のままの姿から離れて技術的な定型を使うのが当たり前になっていたが、初期の画派では古典の情趣が残っている例がある。コットン創世記(Cotton Genesis)の現存部分などがその好例で、ヴィエナ・ディオスコリデス(Vienna Dioscurides)のミニアチュールも証拠となっている。時代が下った東ローマの写本でも、前時代のものから複写されたものはモデルの複製によって写実的になっている。だが東ローマの時代のミニアチュールを古典作品と比較すれば、屋外から修道院にこもってしまったような印象を受ける。教会組織の制約のもと、ビザンティン美術は様式化していった。肌の色を浅黒く塗り、ズボンを細長く引き伸ばし、足運びを固定して描かれるようになった。褐色・くすんだ青とその中間色が好まれた。後にイタリアのミニアチュールの特色となる肌色の扱い方が最初に現れるのはこの時代である。すなわちオリーブ・緑その他の暗い色の上に肌色を塗りつける手法である。背景もまたきわめて慣習的になり、写実的な自然の姿は見られなくなり、中世のミニアチュールに大きな影響を与えた。
ビザンティン美術の中でミニアチュールの美的価値は大きかったが、華々しい色彩と豊富な金の使用を特徴とするオリエントの壮麗な価値観も同時に現れた。このオリエント式のまばゆい金色の背景は、まずミニアチュールに取り入れられ、その後西方の美術学校の制作物にも取り入れられるようになった。
中世イタリアは、ビザンティン美術の影響を大きく受けている。ラヴェンナやヴェネツィアなど、イタリアの教会における初期のモザイク画は避けがたくビザンティン美術の影響を受けた好例である。とはいっても研究者にとって比較対象となる中世初期の作品はわずかで、12世紀の作品になってやっと、ビザンティン美術の伝統的な影響を受け継いだフレスコ画やミニアチュールが見つかり、数世紀をわたっての連関が保たれていると分かる。
8-12世紀 北西ヨーロッパケルズの書(9世紀初期)より、ヨハネによる福音書。豪華な装飾が施されているが挿絵らしさはない
西ヨーロッパの写本彩飾画派は、写本の装飾のみを目的としていた。メロヴィング朝の時代の写本、北イタリア(ロンバルディア)・フランク王国周辺の画派による写本、スペインの写本、ブリテン諸島のインスラ美術(en:Insular art)による作品、これらのいずれにも人物描写はほとんど見つからず、ミニアチュールは人体の写実よりも装飾の中心としての役割を果たしている。
アングロサクソン画派はカンタベリーとウィンチェスターで特に盛んであったが、彼らはおそらくビザンティン美術の影響をほとんど受けず、ローマ古典を原型にして人物の自由な描写を作り上げたと思われる。10?11世紀、この画派のミニアチュールの最大の特色は、はっきりとした輪郭描写にある。これはこの後数世紀にわたってイギリスのミニアチュールに影響を与えたが、西ヨーロッパのミニアチュール発展の本筋からは外れていた。
カロリング朝の君主らの下では、古典の原型を元にする画派が生まれたが、これは主にビザンティン美術を元にしていた。カール大帝の奨励を起源とする画派において、ミニアチュールは2つの様式に分かれた。ひとつはビザンティン美術の様式に基づくきわめて因習的なミニアチュールで、題材は主に福音伝道者や皇帝といった、決まった人物の肖像であった。紙面は豪華に彩り・縁どりが行われ、通常は自然の風景は用いられず、決まったパターンの構造的な背景が用いられた。この画派に縁取り・飾り文字の装飾が加わり、後の大陸西方の画派の原型となった。一方で、写本挿絵を目的とするミニアチュールもあり、聖書の各シーンなどが題材であった。こちらのミニアチュールにはより自由な描写が認められており、ビザンティン風の因習的なものとは違う、ローマに倣った写実主義が見受けられる。聖エセルワルドの聖別書(10世紀 アングロサクソン画派)より、キリストの洗礼
南方アングロサクソンの芸術家によるミニアチュールは、肌色をいっぱいに塗る手法や金を惜しまず使う装飾など、カロリング朝の画派からの影響を受けた。ウィンチェスター司教の聖エセルワルドの聖別書(英語版)(963年-984年)などでは、一連のミニアチュールが土着の技法で描かれながらも、外部の技術の影響とみられるくすんだ色の顔料で彩色されている。とはいっても彩色の手法自体は、本質的にはやはり土着のものであった。これは人物の扱い方・服の襞をはためかせる傾向などからうかがえる。この技法は改良が加えられ、手足を不自然に強調することが多くなった。ノルマン・コンクエストによって、この土着の画派は姿を消した。
12世紀の美術の目覚めにともない、写本装飾は強い衝撃を受けた。当時の芸術家は描線や飾り文字に優れていたが、ミニアチュールでは、太い輪郭と服の襞の注意深い観察による力強い筆致も特徴のひとつである。芸術家たちは人物描写により習熟し、まだ因習に沿って同じ描写を繰り返し用いる傾向はあったものの、個々の努力によって高貴な人物のミニアチュールが多く生まれた。
ノルマン・コンクエストによってイングランドは大陸美術の中に組み込まれることになった。フランス・イングランド・フランドルの画派は交流を深めて成長し、共通の情熱によって活動した。その結果、12世紀後半以降、北西ヨーロッパで格調高い写本装飾作品が生まれた。聖母子のミニアチュール。12世紀、パーク大修道院版聖書より
だが、自然の風景についていえば、岩や木といった紋切り型の記号が見受けられる以外はほとんど描かれなかった。12世紀からの数世紀のミニアチュールは、人物をさらに強調した装飾手段となったのである。この流れから、(大抵つや出しされた)金で空白全体埋めてしまう技法が生まれた。ビザンティン画派でも行われていた豪奢な装飾法である。この後の時代にも受け継がれる、神聖視される人物の扱いの定型化も特徴。これらの人物は敬意を示すために古い時代の伝統的なローブを着込んでおり、同じシーンの他の人物は、当時の普通の服を着ている。 13世紀になると、minuteからの語源と考えられてしまいそうなミニアチュールの時代となる。
13-15世紀 北西ヨーロッパ