紫禁城
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紫禁城
太和殿
各種表記
繁体字:紫禁城
簡体字:紫禁城
?音:Z?jincheng
注音符号:?????????
発音:ツーチンチェン
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紫禁城(しきんじょう、簡体字中国語: 紫禁城、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Z?jincheng、満洲語:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???????
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??????、転写:dabk?ri dorgi hoton)または故宮(こきゅう、簡体字中国語: 故?、?音: Gug?ng)は、中華人民共和国北京市に存在している明王朝清王朝の旧皇宮に当たる伝統建築。宮殿

北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコ世界遺産(文化遺産)となっている。敷地面積は72haあり、世界最大の木造建築群が建ち並んでいる。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。孔廟岱廟と並ぶ中国三大宮廷建築の一つと言われている[1]
歴史明時代に描かれた紫禁城の絵画

現在の紫禁城は1406年から1421年にかけて、元王朝の「クビライ大都宮殿」の位置に基づいて造られた。1369年、明の洪武帝モンゴル人の王朝である元王朝の宮殿を取り壊すように命じた。1406年、永楽帝の時代に南京から北京に遷都し、取り壊された元王朝の宮殿の跡地に今の紫禁城の建設を開始した[2]。建設は 14年間続き、10万人の熟練した職人と最大 100万人の労働者が完成に貢献した[3]

明王朝による1421年南京から北京への帝都遷更以降、清王朝の滅亡まで、約400年間中国皇室専用の宮殿として使われていた。

1644年、明への反旗を翻した李自成軍は北京を占領し、その際に紫禁城の一部を焼き尽くした。しかし、満洲族が建国した清王朝は李自成を北京から駆逐し、紫禁城を再び修繕した。火事で焼けずに残った建物は明の時代から変わらず漢民族の旨趣を維持した一方、新たに改築された建物は満洲族の建築の特徴を加え、満漢両方の要素を備えた宮殿となった。その後紫禁城の様式は変わることなく現代に至る。

1900年義和団の乱では西太后光緒帝西安に逃亡し、イギリスフランスアメリカドイツロシアオーストリア=ハンガリー帝国イタリア日本による八カ国連合軍に占領された[4]

1908年12月、西太后が愛新覚羅溥儀を次代の皇帝に指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられて清朝の第12代宣統帝となり、紫禁城に居を構えた中国最後の皇帝となった。

1911年10月に辛亥革命が起き、袁世凱の要求を受けて1912年2月に溥儀は退位したが、中華民国臨時政府の「優待条件」として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。

しかし、1924年10月の馮玉祥による北京政変の際、11月5日を以て溥儀をはじめとする皇族には紫禁城から退去するよう通告され、その後は故宮と呼ばれルーヴル美術館などの例に倣い1925年10月10日博物館として組織された。1949年に、中国共産党の指導者の毛沢東城門の一つである天安門中華人民共和国の建国を宣言した。

1961年に、中国国務院より国家重要文化財1987年ユネスコより世界遺産に認定された。現在は建物自体も明と清の歴史を伝える故宮博物院の文物の一つとして一般開放されている。
主な建物






所在地

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度54分50.1秒 東経116度23分27.6秒 / 北緯39.913917度 東経116.391000度 / 39.913917; 116.391000 (紫禁城)
北京の城門(zh)と紫禁城(中央)紫禁城見取り図 - - - 内廷(北側)と外朝(南側)の大まかな区分境界

A. 午門
B. 神武門
C. 西華門
D. 東華門
E. 隅櫓
F. 太和門
G. 太和殿
H. 武英殿
J. 文華殿
K. 南三所
L. 後三宮(乾清宮)
M. 御花園
N. 養心殿
O. 皇極殿

北京の故宮は南北の長さ961m、東西の幅753m、面積72ha、980あまりの建物で構成されている。周囲は幅52m の水堀が囲む。城壁の高さは12mで底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門[5]がある。

紫禁城の名は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせたものである[6]

紫禁城は世界の中心を地上に具現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。

紫禁城の周辺には中南海円明園頤和園などの離宮も造営された。これらは庭園を中心とした施設で紫禁城よりも遥かに広い敷地をもっている。
外朝の外、皇城の南

かつては紫禁城をとり囲む皇城(dorgi hoton)[7]と呼ばれる区画が存在したが、辛亥革命以降、皇城の城壁は次々に取り壊されて、現在はほとんど形跡をとどめていない。

天安門(abkai elhe obure duka)[7]:明代には承天門と呼んだ。午門・端門のさらに南にある。法令の公布されるところである。これに対として「地安門(na i elhe obure duka)[7]」が皇城の北に作られていたが、現存しない。

端門(tob duka)[7]:天安門と午門の間にある門である。

太廟

太社稷

城門午門

午門(julergi dulimbai duka)[7]:天安門を入り、端門を抜けた北側にある紫禁城の南門。この門の名称は、紫禁城からして午(うま)の方角、つまりの方角にある事から名付けられた。この門の特徴は、コの字型に両翼がせり出した独特の形をしていること。また、この午門に囲まれた広場では、官吏宦官が午前4時に皇帝を遥拝することになっていた。百叩きの刑などの刑の執行も行われた。ちなみに、映画「ラストエンペラー」で生母の死を知った溥儀が外に出ようとして陳凱歌の演じる門番に止められたり、溥儀に紫禁城から追放された宦官達が居たのもこの場所である。当時、既に清朝は滅び中華民国の時代となっていたが、形式的上この門の内側は清朝のままであった(ただし、太和殿等の在る外朝部が中華民国の領域で、内朝部が清朝のままである)。現在は、観光記念品を販売する店があり、日本語解説のテープも貸し出している。なお、この午門から先は有料で、故宮博物院への入館券がなければ入ることができない。

東華門(dergi eldengge duka)[7]:外朝東側にある門(清代には大臣らが使っていた門。格式が一つ低いとされる。皇帝・皇后・皇太后の棺がここから出されたので、「鬼門」・「陰門」とも呼ばれる)。

西華門(wargi eldengge duka)[7]:外朝西側にある門。

外朝黄昏の太和殿内金水河と文華殿

内金水河:護城河ともいう。紫禁城をぐるりと囲む幅52mの堀。

太和門(amba h?waliyambure duka)[7]:外朝の正門。明代の名称は皇極門。紫禁城を居城とした明朝の歴代皇帝は、ここで政務を執った。現在は、書籍や観光記念品を販売する店がある。

獅子像:太和門の両側にいる青銅の像。如何にこの門が権威ある建物なのかを表している。


弘義閣(jurgan be selgiyere asari)[7]

体仁閣(gosin be yabubure asari)[7]

保和殿西廡:現在は絵画館となっている。

保和殿東廡:現在は鐘表館となっている。

歴代芸術館

前三殿日時計(太和殿)鶴の像(太和殿)

太和殿・中和殿・保和殿の総称。紫禁城の中心的建造物。外朝三殿ともいう。

太和殿(amba h?waliyambure deyen)[7]:明代の名称は皇極殿。俗称は金鑾殿。紫禁城の中軸線上にあって、外朝の三大殿の正殿。紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝の即位式や万寿節(皇帝の誕生日)・結婚、それに元旦や冬至などを祝う時と重要な朝会・筵宴・出征、そして皇帝の葬儀など宮廷の重大な式典を行った最も重要な建物である。式典が行われるときには、太和殿前の広場に官吏たちがずらりと並び、全員で三跪九叩頭の礼を行った。また、太和殿は現存する中国最大の木造建築で[8]、高さ35m、幅約63m、奥行き約33mもあり、しかも3段の大きな台座の上に建っているので、数ある紫禁城の建物の中で最も大きく見える。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。玉座の上には大玉が吊るされ、皇帝として不適の者が座ると玉が落ちてくるという迷信があり、袁世凱は、わざわざ玉座をずらして座り、現在もそのままとなっている。

日時計:太和殿のすぐ隣にある皇帝の権威の象徴。

鶴の像

亀の像


中和殿(dulimbai h?waliyambure deyen)[7]:明代の名称は中極殿。太和殿の後ろ側にあり、式典が太和殿で行われる直前に皇帝が大臣らから祝辞を受け、一旦、休憩した場所。この中和殿は数ある紫禁城にある建物の中で唯一、正方形の形をしているのが特徴。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。

保和殿(enteheme h?waliyambure deyen)[7]:明代の名称は建極殿。中和殿の後ろ側にあり、式典が太和殿で行われる直前に皇帝が更衣をした場所。清朝の時代は、毎年正月にモンゴル、ウイグルの王侯を招いての宴会も行われ、乾隆帝以来、皇帝臨席の下、官吏採用試験である文科挙の最終試験である殿試が、ここで行われた。現在は、清朝時代の宮廷の姿を陳列している。

紫禁城東南部

文華殿(?u eldengge deyen)
[7]:明朝の時代は皇太子がここに暮らし、「内閣」が置かれた。清朝の時代は、清朝の乾隆帝によって編纂された「四庫全書」がここに収められ、儒教の講義が行われた。文武二殿の一つ。

精一堂

恭黙室

九五斎

玉食館

省愆居

主敬殿(ginggun be da araha deyen)[7]

本仁殿(gosin be fulehe obure deyen)[7]

集義殿(jurgan be isabure deyen)[7]

伝心殿(mujilen be ulara deyen)[7]

治牲所

文淵閣(?u tunggu asari)[7]

鑾儀衛(dorgi faidan be kadalara yamun)[7]

地和庫房

国史館(gurun i suduri kuren)[7]

上駟院・南三所

上駟院(dergi adun i jurgan)
[7]

南三所

?芳殿

御茶膳房(dergi amsu cai i boo)[7]

太医院(oktosi be kadalara yamun)[7]


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