紙芝居
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東京・浅草にて、紙芝居『黄金バット』を上演する男性。

紙芝居(かみしばい)は、物語ごとに複数枚を一組に重ねた絵で、その絵を一枚ずつ出して見せつつ演じ手が語りながら進める芝居的な芸能[1]。主に子供たちを対象にしたもので世界に類を見ない日本の芸能である[1][注 1]

明治から存在した「立絵」の紙芝居と、世界恐慌期に立絵が廃れた後で誕生した「平絵」の紙芝居とに大きく分けられるが、今日では単に「紙芝居」と言う場合平絵の紙芝居を指す。

昭和の戦中期では、子供へ絶大な影響力、洗脳力があることから、『軍神の母』(日本教育芝居協会)など「国策紙芝居」も作られ、戦意高揚に役立てられたことは事実である。この項目では主として、世界恐慌時代に誕生した「平絵」の紙芝居について解説する。
概要

台本に沿って描かれた数枚から十数枚の絵をその筋書きに沿ってそろえて重ね合わせ、演じ手は、1枚目から順に観客に見せながら、筋書きとセリフを語っていく。見せ終わった絵は、横に引き抜いて裏に回し、物語を展開させていく。

紙芝居は「絵」と演じ手の「語り」が主体である。これに対して

普通の
芝居演劇)は複数の「人=役者」が主体。

人形芝居(人形劇)は「人形」と演じ手の「語り」が主体。

絵本の読み聞かせでは、「絵」が主体で「語り」は「従」。

紙芝居の系譜
源流

紙芝居のルーツは、平安時代の『源氏物語絵巻』であるという説がある。絵巻の「東屋」の段に物語絵を見ながら、語り手の話を聞く場面が描かれており、これが紙芝居の構造に似ているという。また、寺院では、壁画や掛け軸を使った「絵解き」があった[2]が、鎌倉時代以降には大衆化し、一般庶民を集めた娯楽となった。

時代が下り、江戸時代から明治・大正にかけて、小さな穴から箱の中の絵を覗くのぞきからくり縁日の見世物小屋で楽しまれた。絵だけではすぐあきられるので、これに語り(のぞきからくり節)をつけたものが人気を博した。

また同じ時期に寄席や縁日で楽しまれた、写し絵、手影絵、影絵眼鏡もまた、「絵を見せながら語る」という点で、紙芝居の源流と言うことができる。写し絵は和紙のスクリーンにガラス板に描いた絵を投影する幻灯の一種だったが、無声映画の登場で廃れる。
「立絵」から「平絵」の紙芝居へ

紙芝居の源流は「立絵紙芝居」とされる。「写し絵」が廃れた後、興行師の丸山善太郎が立絵紙芝居を考案する。三遊亭圓朝の弟子だった新さんは師匠の勧めで落語を諦め、木版刷り絵や写し絵用のガラス板を描いていたが、写し絵が衰退し失業する。丸山は新さんの絵に着目し、立絵紙芝居を制作した。これは竹串に14-15cmの切り抜いた絵を貼りつけ、小型の舞台で動かすもので、当初は祭礼縁日の小屋掛け興行だった。しかし1901年(明治34年)頃になると小型の舞台を担いで街頭で上演する「街頭紙芝居」が登場する。人気の題目は「西遊記」でその他は歌舞伎に題材をとったものが多く、大人向けのものも多かったという[3]

大正期に入ると人気は廃れるが、1923年(大正12年)の関東大震災後は子供の娯楽として人気となる。その流行から警察の取り締まりの対象となり、見料を取るかわりに飴を売って代金を徴収するというやり方が広まった。1929年(昭和4年)、浅草区菊屋橋警察署管内で立絵紙芝居そのものが禁止されると、後藤時蔵が絵を見せながら解説し、飴を売るという「平絵紙芝居」を考案する。この飴売りを伴う紙芝居も翌1930年(昭和5年)には警視庁管内で禁止されたが[4]第1作「魔法の御殿」、第2作「黒バット」に続き、3作目の「黄金バット」(永松健夫画)が大人気となる[3][5]

この頃の紙芝居は一枚一枚手書きで、大きさも現在の半分ほどだった。紙芝居業者が紙芝居の作家や画家を雇い、「貸元」として紙芝居屋に有料で紙芝居を貸し出し営業させるという制度も、1930年(昭和5年)に始まる。1935年(昭和10年)の東京市の調査によれば、市内に約二千人の紙芝居業者が居たという。しかし子供の興味をひきつけるための荒唐無稽なストーリーや過激な表現が教育上問題とされるようになる。また路上で水飴煎餅を売り歩いていたことで衛生上の問題も指摘された[5][6]。この頃の紙芝居は消耗品とされ、散逸しているものが多く、研究が困難なものとなっている[2]
「平絵」の紙芝居
街頭紙芝居

1929年(昭和4年)アメリカで起きた世界恐慌は、日本でも昭和恐慌を起こし、資本も要らない平絵紙芝居に多くの失業者が飛びついた[2]。紙芝居屋は子供たちからは紙芝居のおじさんと呼ばれていた。紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と煎餅などの駄菓子を積んで街頭を回って、拍子木を打ったり法螺貝を吹いたりして子供を集めて駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。紙芝居のおじさんはたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。

紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。姜竣は農村には紙芝居はなかったとしている[7]田沼武能撮影「紙芝居」(佃 (東京都中央区)1955年)

主な作品

魔法の御殿:後藤時蔵脚本・永松健夫画。なお脚本は口伝でひろめられた。

黒バット:鈴木一郎脚本。白骨面に黒マントの怪盗が活躍する紙芝居。

黄金バット:黒バットを倒した正義のヒーロー。鈴木一郎脚本、永松健夫画。後期の『黄金バット ナゾー編』は鈴木一郎原作で加太こうじが脚本と絵を担当した。

世界

少年タイガー

墓場奇太郎(ハカバキタロー):民話『子育て幽霊』を紙芝居向けに脚色した作品。ゲゲゲの鬼太郎#誕生の経緯も参照。

内容

男の子向け - 活劇もの、冒険物語、時代劇

女の子向け - 悲劇もの、継子いじめ、孝行美談、怪談、悲話

幼児向け - 漫画

教育紙芝居(印刷紙芝居)

やがて紙芝居を教育目的に取り入れようとする動きが出てくる。教会の日曜学校で伝道活動をしていた今井よねは、子供たちが街頭紙芝居を楽しんでいるのを見て、1933年(昭和8年)、「紙芝居刊行会」を設立して紙芝居『クリスマス物語』(今井よね編集、板倉康夫画)を制作。これが日本初の印刷紙芝居だった[6]

松永健哉は今井の福音紙芝居に影響を受け、1937年(昭和12年)「日本教育紙芝居連盟」を設立。教育紙芝居運動を進める[2]。高橋五山は全甲社という出版社を興し、1935年(昭和10年)、「幼稚園紙芝居」全10巻を発行した。高橋は幼稚園に売り込むが当初は下品な街頭紙芝居のイメージがあり、門前払いされることが多かったという。

その後、日本教育紙芝居連盟を母体に「日本教育紙芝居協会」が設立されると、体制擁護の姿勢を取り、戦時中は戦意高揚のプロパガンダとして国策紙芝居が全国で演じられた[2][8]。国策紙芝居の題材は銃後支援、軍事援護、国民貯蓄奨励など国民精神総動員運動に沿ったもので、大分県の例では県下小学校、全370校に「紙芝居の先生」を配置して国策紙芝居の普及に努めた[9]大阪鉄道局制作「鉄路の華」(大阪駅清水太右衛門殉職事故を扱った物)1942年
戦後

戦争に協力していた日本教育紙芝居協会は批判を受け、1945年(昭和20年)12月に自発的に解散した。GHQはメディアの検閲を始めたが、紙芝居も大量処分され、検閲印の押されたものが実演許可された[6]。1948年(昭和23年)、文部省は幼児教育の手引書となる『保育要領?幼児教育の手びき?』の中で、紙芝居を保育教材・教具として制度的に位置づけた[2][6]。その後、教育紙芝居は保育現場で急速に普及、昭和20年代には保母が幼児にせがまれるまま紙芝居ばかり読んでいる「紙芝居中毒」を指摘されるまでになった[10]。1950年(昭和25年)には、高橋五山、佐木秋夫、稲庭桂子らが「教育紙芝居研究会」を結成している[2]

運動、研究、出版活動を行った「教育紙芝居研究会」は、1955年(昭和30年)に倒産、それを引き継ぎ1957年(昭和32年)に、村松金治、稲庭桂子らによって童心社が創立された。1960年(昭和35年)には公共図書館での出版紙芝居の貸し出しが始まり、貸出率が図書を上回る図書館もあったといわれる。1962年(昭和37年)に、保育紙芝居の生みの親、高橋五山の業績を記念して、毎年の優れた出版紙芝居に授与される「五山賞」が制定されている[11]

当時、教育画劇など6?7社が紙芝居の出版活動を行っていたが、1967年(昭和42年)文部省(当時)の「教材整備10か年計画」により「小学校教材基準」から紙芝居が外されてしまう。学校教材としての紙芝居活用は激減し、小学校から紙芝居が消えることとなった。主な販路は保育園、幼稚園、図書館となり、出版紙芝居の対象年齢、作品内容にも影響していった[12]


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