純粋理性批判
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出典検索?: "純粋理性批判" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年10月)

『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、: Kritik der reinen Vernunft) は、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著である。1781年に第一版が、1787年には大幅に手を加えられた第二版が出版された(一般に前者をA版、後者をB版と称する)。カントの三大批判の一つで、1788年刊の『実践理性批判』(第二批判)、1790年刊の『判断力批判』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間理性の抱える諸問題についての古典的名著であり、ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた、西洋哲学史上最も重要な書物のひとつである。
概論

『純粋理性批判』は、理性認識の能力とその適用の妥当性を、「理性の法廷」において、理性自身が審理し批判する構造を持っている。したがって、それは、哲学形而上学)に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントは言う。

カントは、理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) に従って事物 (Sache, Ding) を認識すると考える。しかし、この原理は、経験に先立って理性に与えられる内在的なものである。そのため、理性自身は、その起源を示すことができないだけでなく、この原則を逸脱して、自らの能力を行使することもできない。換言すれば、経験は経験以上のことを知りえず、原理は原理に含まれること以上を知りえない。カントは、理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験に基づかずに成立し、かつ経験へのアプリオリな制約である、超越論的 (transzendental) な認識形式に求め、それによって認識理性 (theoretische Vernunft) の原理を明らかにすることに努める。初学者向けの解説: すなわち「認識する」(主体側)とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せたのである[1]
人間的認識能力とその制約

伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を(不在ではないかと)疑い、それを以て認識そのものの成立の妥当性を否定した。しかし、カントは、こうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能性の条件である超越論的制約は、すべての人間理性に共通なものである。したがって、その制約の下にある認識は、すべての人間にとって妥当なものである。

ここでカントは、認識の制約以前にある「物自体」 (Ding an sich) と経験の対象である「物」 (Ding) との間を区別する。「物自体」は、理性を触発し (affizieren)、感性 (Sinnlichkeit) と悟性 (Verstand) にはたらきかける。そして、それによって人間理性 (menschliche Vernunft) は、直観 (Anschauung) と 概念 (Begriff) とを通じて、超越論的制約である空間時間という二つの純粋直観 (reine Anschauungen)、および12の範疇 (Kategorie) すなわち純粋悟性概念 (reine Verstandbegriffe) の下に、自らの経験の対象として物を与える。

しかし、これは一方で、人間理性はわれわれの認識能力 (unser Erkenntnisvermoegen) を超えるものに認識能力を適用することができない、ということを意味する。すべての人間的認識は、超越論的制約の下に置かれている。したがって、伝統的に考えられてきた直接知や知的直観の可能性は、否定される。イデア(理念)といった超越は、人間理性にとって認識可能であるとした。そして、このような伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられうるものにのみ限定する。すなわち、人間理性はただ感性に与えられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するにとどまるのである。

感性と悟性とは異なる能力である。そして、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungskraft) の産出する図式 (Schema) である。また、感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit) は統覚 (Apperzeption) 、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルトのコギト)によって統一されている。しかし、理性には、自分の認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik) がある。このため、認識理性は、ほんらい悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかし、カントは、認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識 (erkennen) されえないものはただ思惟する (denken) ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神、の不滅、自由が挙げられる。
アンチノミー(二律背反)

理性概念・理念 (Idee) は、人間の認識能力を超えている。したがって、理念を認識し述語づけようとする試みは、失敗に終わらざるをえない。カントは、そのような悟性の限界を、4対の二律背反 (Antinomie) する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいは、どちらも偽であるという結果に終わる。カントは、このような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用を誤った、成り立たないものについての言述であることに帰せしめる。こうした二律背反命題としては事物の必然性自由についての背反命題(第三アンチノミー)が挙げられる。これは、キリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いである。しかし、カントにおいては、因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用するがために、矛盾を来たすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由が成り立つということは、カントの批判の体系内では、双方ともに真なのである。

こうした理性概念と人間理性の問題は、『純粋理性批判』の中では必ずしも十分に展開されず、『実践理性批判』で展開されることになる。
構成

主な構成は以下の通り。

先験的(超越論的)原理論

先験的(超越論的)感性論

空間について

時間について


先験的(超越論的)論理学

先験的(超越論的)分析論

概念の分析論

原則の分析論


先験的(超越論的)弁証論

純粋理性の概念について

純粋理性の弁証的推理について

純粋理性の誤謬推理について

純粋理性のアンチノミー(二律背反)

純粋理性の理想





先験的(超越論的)方法論

純粋理性の訓練

純粋理性の基準

純粋理性の建築術

純粋理性の歴史


内容
先験的主要問題

認識は時間的には経験とともに始まる。とはいえ、あらゆる認識が経験から発現するのではない(第二版B1)。「すべての物体は延長している」という判断では、述語が主語のうちに含まれている。この種の判断は分析的判断と呼ばれる。これに対し「すべての物体は重い」という判断では、述語が主語においては考えられていない。この種の判断は総合的判断と呼ばれる。経験的あるいは後天的判断は、何が存在するか、いかに存在するかを告げるのみであり、それ以外であってはならぬという必然性をもつ先天的判断とは異なる。分析的判断はすべて先天的であり、総合的判断は通例後天的である。にもかかわらず数学および自然科学においてはすでに現実的である先天的かつ総合的な判断は、いかにして可能かという問題を立てることができ、先天的認識に関してのこの批判は先験的(対象一般をわれわれが認識する仕方に関するすべての認識 (B67) )と呼ばれる。

いかにして先天的総合判断は可能か、あるいは学としての形而上学は可能かという先験的主要問題は以下の4つに分かたれる。
いかにして純粋数学は可能か(感性論)

いかにして純粋自然科学は可能か(分析論)

いかにして素質としての形而上学は可能か(弁証論)

いかにして学としての形而上学は可能か(方法論)

先験的感性論

時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。ここでいう時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性 (transzendentale idealitat) )。時空はそれによってのみ現象が可能となる主観的制約(経験的実在性 (empirische kealitat) )である。そのため、見出されるはずの一切の対象に妥当すると言いうる。
先験的分析論

悟性とは感性の受け取る表象によって対象を認識する能力である(B74)。悟性がそれによって多様を客観的に総合統一する規則は純粋悟性概念あるいは範疇と呼ばれる。

「判断表?範疇表」



全称的(すべてのAはBである)?単一性

特称的(あるAはBである)?数多性

単称的(このAはBである)?全体的





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