納谷六朗
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なや ろくろう
納谷 六朗
プロフィール
本名納谷 六朗
[1][注釈 1]
愛称ロクちゃん[4]、六さん[5]
性別男性
出身地 日本東京府東京市
(現・東京都[2][3][6]
死没地 日本・東京都大田区[7]
生年月日 (1932-10-20) 1932年10月20日
没年月日 (2014-11-17) 2014年11月17日(82歳没)
血液型B型[8]
職業声優俳優ナレーター演出家
事務所マウスプロモーション(最終所属)[9]
配偶者納谷光枝(2014年没)[10]
著名な家族納谷悟朗[4][11](兄、2013年没)
火野カチ子(兄嫁)
公称サイズ(時期不明)[8]
身長 / 体重165 cm / 60 kg

声優活動
活動期間1959年[12][13] - 2014年
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
デビュー作村人A(『ウィリアム・テル』)[13][14]
俳優活動
活動期間1950年代 - 2014年
ジャンルテレビドラマ映画舞台
デビュー作王子の像(『幸福な王子』)[12]
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納谷 六朗(なや ろくろう[2]1932年10月20日[2][6][3] - 2014年11月17日[3][7])は、日本声優俳優ナレーター演出家東京府東京市(現・東京都)出身[2][3][6]。最終所属はマウスプロモーション[9]

兄は同じく俳優、声優の納谷悟朗[4][11]、義姉は女優、声優の火野カチ子。妻は元マウスプロモーション代表取締役社長の納谷光枝、長男はSTUDIO MAUSU代表取締役社長の納谷僚介。

2014年、第8回声優アワード「功労賞」を受賞[15]
生涯
声優・俳優になるまで

7人兄弟の六男[16]。「納谷兄弟で名前に数字が付くのは、五男の悟朗と六男の六朗だけ」と本人は語っている。東京都立西高等学校立命館大学法学部卒業[3]

子供の頃から「アナウンサーやりたい」ということは少し言っていたという[11]

大学卒業後、出版関係の仕事をしていた別の兄を手伝っていたが、悟朗の所属していた劇団稲の会の公演パンフレットを作成する手伝いをしたことが縁[注釈 2]で芝居を始める[12]。初舞台は『幸福な王子』の王子の像の役[12]

舞台活動を始めてしばらくした頃(1959年)、所属劇団で電話番をしていると悟朗から突然電話がかかってきた。「え、何、何?」と聞くものの無言で、しばらくして「似てねえってよ」と返された[13]。当時、悟朗は海外ドラマ『ウィリアム・テル』でテルの吹き替えを担当していたことから、テルの偽物が登場する回で「偽物は悟朗と似た声のやつにやらせてみよう」となり、弟であった六朗の声を確かめようと電話をかけてきたとのこと[13]。結局、偽物も悟朗が兼役で演じたが、このことがきっかけで端役(村人A)で呼ばれたためアテレコデビュー[14]。デビュー作からいきなりの兄弟共演だったという[13]

劇団現代劇場、河の会を経て[3][9][13]1974年に江崎プロダクション(現・マウスプロモーション)へ所属[3]筒井康隆大一座などの結成にも参加している[3]。また舞台の傍ら、マウスプロの後進の育成にも励んでいた。マウスプロ自主公演では、主役を張ることもあった。声優としては晩年まで活動を続けていた。
死去

2014年10月22日に自宅で体調不良を訴えて東京都大田区内の病院に入院。検査の結果肺炎脳梗塞を発症していたため治療を受けていた[17]。しかし同年11月17日午前10時28分、肺炎のため東京都大田区の病院で死去[7][17][注釈 3]。満82歳没。
人物

年齢不詳のちょっと神経質な声が特徴[19]。男性の話す京都弁に堪能。

好きなスポーツ野球。かつて過ごした京都に本拠地が近かったため南海ホークス(福岡ソフトバンクホークス)を応援していた。またイチローのファンで、シアトル・マリナーズ移籍後は毎年シアトルに観戦に行きマリナーズの帽子を好みかぶっていた[12][20]

趣味は読書
兄との関係

兄の悟朗の電話がきっかけで声優としてデビューしたが、いざデビューするとなると悟朗から「苦労するからやめておけ」と心配されることもあったという[12]

契約の問題から本名で活動することになったため、当初は「超売れっ子の納谷悟朗の弟」とやっかみを受け叩かれたり、悟朗と芝居を比較されるなど悔しい思いをしたこともあった。だが、後に「悟朗と六朗は別」と認識されるようになり、以降は得をすることも増えたという。六朗は後に「この世界へ入るキッカケをくれた悟朗にはとても感謝している」と語っている[12]

ある収録で、「悟朗の野太さと六朗の細い声の中間」という意味の5.5朗な声を頼まれたことがある[12]

デビュー作以降、悟朗との兄弟共演作は多数あった。悟朗が銭形警部役を務めていた『ルパン三世』シリーズにも複数出演しており、銭形警部が変装した役を演じたことがある。また『ルパン三世 sweet lost night ?魔法のランプは悪夢の予感?』では医師のジョーダン役で悟朗と共演した他、『超電磁ロボ コン・バトラーV』14話では、悟朗の演じた南原博士の胸像のメッセージボイスも演じている。

映画『人生狂騒曲』では体調不良で収録に参加できなかった悟朗の代役として、彼の持ち役であったジョン・クリーズの吹き替えを務めた。

映画『アマデウス』のスペシャルコレクション盤レーザーディスクの特典である監督と脚本家によるオーディオ・コメンタリーで、監督ミロシュ・フォアマンの吹き替えを担当し、対する脚本家ピーター・シェーファーを兄である悟朗が吹き替え、兄弟共演となった。このコメンタリー吹き替えが収録されたLDは長らく廃盤となっていたが、「吹替の力」シリーズ『アマデウス 日本語吹替音声追加収録版ブルーレイ』の特典DVDで復刻された。対話シーンは無いがテアトル・エコー所属俳優が多数参加した1985年の映画『オズ』の劇場公開版、ポニー版・バンダイ版の日本語吹き替えも兄弟揃った出演作である。
エピソード

少年時代は利発で級長まで務めていた[4]

六朗が業界に入るきっかけとなった芝居は、悟朗の記憶では『坊つちやん』であり、六朗は主役だったという[11]。だが、その芝居はほとんど赤シャツにスポットを当てて改変されており、六朗は舞台中央に立っていればよいという形で出演していた[11]。なお、新聞では「赤シャツ物語とタイトルを変えた方が良い」と皮肉られていたという[11]

仕事に関して、吹き替えもアニメも区別せず取り組み、どちらも魅力的だと語っている。ただし、周囲から評価されるのはアニメの方が多く、その影響力のすごさには「大きなやりがいに繋がる」と述べている[12]

キャリア初期の収録であった「テープが途中で止められず、失敗すれば一からやり直し」という一発勝負的な緊張感が心地よかったといい、それに気づいてから「声優は天職」と思うようになったという。そのため、後進の育成では「初見の力の大切さ」を特に指導していた[12]

思い出に残っている作品には、兼役で11役を演じたことから『オーシャンと11人の仲間』の吹き替えを挙げている。若手だった当時「一人でそんなにたくさんの声は出ないですよ!」と思いながら演じたという[21]

初代『仮面ライダー』で本郷猛 / 仮面ライダー1号役の藤岡弘、が撮影中のバイク転倒事故で重傷を負い、撮影済みの映像素材のアフレコが不可能になった時、六朗が代役を務めた[3]。録音演出の太田克己は、ショッカー首領の声を担当している悟朗の実弟とは知らずにキャスティングしたという[3]。当時のドラマは全編アフレコが主流で、六朗自身も後に「アクション作品の事故でアフレコの代役というのも珍しくなかった。藤岡さんの芝居は自分に似ていたので、癖がつかみ易くスマートにアテられた」と語っている。また、仮面劇の吹き替えにおいても特に問題はなかったという[13]。なお、劇中では悟朗演じるショッカー首領と納谷六朗のライダーが対決する兄弟共演のシーンもあったが、本人は「記憶にない」と語っている[13]。その他、テアトル・エコーが怪人など声優のキャスティングを仕切っていた現場[注釈 4]で未所属の六朗が出演することになったのは、「自身の所属事務所がテアトル・エコーと仲が良かったから」と述べている[13]

聖闘士星矢』では、当時50代半ばであったが、美形の青年である水瓶座のカミュ役に抜擢された。このことは役者仲間にからかわれたが、古谷徹など若手のレギュラー出演者は出番の無い者も、こぞって彼の演技を見学するためスタジオに来ていたという。その後、カミュは根強いファンを持つ人気キャラクターとなり、若い層にも六朗ファンを増やす結果となった。当人も役を気に入り「これまで演じた代表キャラクターの五指に入る」と述べ、『メモリアルCDBOX』におけるインタビューでは、カミュに対する想いを語るとともに「また演じたい」とも述べていた。

幽☆遊☆白書』の仙水忍役については、「多重人格でやりがいのある役だった」と語っている。


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