紋章院
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紋章院
種類法人
設立1484年(ロンドン)
1555年に再設立[1]
創業者リチャード3世
本社ロンドン(クイーン・ヴィクトリア・ストリート)、イギリス
事業地域イングランド
ウェールズ
北アイルランド
主要人物アール・マーシャル(紋章院総裁)
サービス紋章、紋章保持及び系譜の記録、授与及び管理
ウェブサイト ⇒紋章院 (College of Arms)

紋章院(もんしょういん、: College of Arms 又は Heralds' College)は、紋章及び系譜を管理・統括し、イングランドウェールズ及び北アイルランドの国民に新たな紋章を授与するほか、国王や王家の典礼を司る英国王直属の機関である[2]。紋章院は、イギリス国王から紋章に関する権限を委任された紋章の権威である職業紋章官から成る法人であり、イングランド王リチャード3世からの1484年3月2日付の特許状により設立された[3]
背景

ロンドンに本拠を置く紋章院は、ヨーロッパでも数少なくなった紋章に関する政府機関のうちの1つである。スコットランドには、スコットランド紋章局というべきコート・オブ・ザ・ロード・ライアン (Court of the Lord Lyon) と呼ばれるそれ自身の紋章統括機関があり、それはロード・ライアン・キング・オブ・アームズ (Lord Lyon King of Arms) を頂点とする。紋章院は、紋章統括機関がない他のイギリス連邦に属する国の国民にも紋章を授与するが、カナダ南アフリカにはそれぞれ、カナダ紋章庁 (Canadian Heraldic Authority) 及び南アフリカ紋章支局 (Bureau of Heraldry) と呼ばれる紋章統括機関がある。

紋章院は、新たな紋章をデザインし、授与することに加え、紋章保持者(紋章を使用する資格のある者)からの出自を示そうとする人々からの多くの要請を処理する。そのような祖先からの男系に(又は紋章の女性相続人を通して)連なる者には、その祖先の紋章が、系譜の上位にある従兄弟と区別するために必要に応じてディファレンシングを加えた上で再発行される。その目的のために、紋章院は系譜学にも関係しており、市民には公開されていないが、その記録にある多くの系図(系統樹)は法的効力を持っている。誰でも紋章院に家系図を登録することができ、そこでそれらは慎重に内部的に検査され、改められる前には公式証明を必要とする。ロンドンのクイーン・ビクトリア・ストリートに面する紋章院の外観。1756年のものと思われる紋章院のエングレービング

ヘラルドは、もともとは伝令官であり、今日でも時折、紋章院の紋章官は公式に、特に新国王の継承における国王の宣言を読み上げるという元の役割に戻る。彼らは、公式式典(例えば戴冠式貴族院(イギリス上院)への新任議員の披露、騎士叙勲の儀式など)の計画を立て、参列者に案内するなどの役割を担う。これらの公の場に姿を見せるために、紋章院の紋章官は、イギリス王室の一員であることを表す、シンプルな赤い仕着せ(リヴァリー)又はヘラルドの伝統的な主君の紋章(この場合は国王の紋章)で飾られた色彩豊かな一式のタバードのいずれかの衣装を着用する。これらの式典に、彼らは時々トランペット奏者(彼らと紋章官を混同してはならない)の後ろにいる。
建物

1484年にリチャード3世によって創設された際の紋章院の建物は、アッパー・テムズ・ストリート沿いに建つコールドハーバー (Coldharbour) と呼ばれる建物であった。1485年8月22日ボズワースの戦いヘンリー7世がリチャード3世を打ち破り、王位に就くと、コールドハーバーの紋章院は紋章官たちから取り上げられ、ヘンリー7世の母マーガレット・ボーフォートに与えられた[4]

紋章院は、ロンドンのセント・ポール大聖堂から南に程近く、テムズ川の北を走るクイーン・ビクトリア・ストリートに本拠を構える。1555年フィリップ2世メアリー1世によって紋章院が再設立された際に、現在の場所が与えられ、当時はダービー・プレイス (Derby Place) と呼ばれ、1666年までその建物が紋章院であった[4]。ダービー・プレイスについては、いくばくかの記録が残っているが、中庭を取り囲むように3面の建物があったこと、西側に落し格子が備えられた門があったこと、現在はクイーン・ビクトリア・ストリートになっている南側の敷地の西端に大きなホールがあったということを除き、現在もほとんど何もわかっていない[5]

ダービー・プレイスの古い紋章院は、1666年ロンドン大火により焼失している。すべての記録と文書は、ウェストミンスター宮殿に移されて難を逃れたものの、現在の17世紀の建物は大火後に再建されたものである[6]。資金不足のため、再建のための設計をはじめとする作業が1670年代まで遅れた。紋章官たちも私財から再建費を捻出したり、貴族たちにも寄付を求めたが、着工後も資金難は続き、建築は相当ゆっくりだった[5]

2009年2月5日の朝、紋章院の最上階から火が出て消防隊も出動した火災が発生したが、建物内の職員は速やかに避難したため犠牲者はなく、各種記録への損害もなかった。鎮火後の修理の間も、建物が閉鎖されることなく通常の業務が続けられていた。
紋章官キング・オブ・アームズのバナー。

ノーフォーク公によって相続される世襲職位であるアール・マーシャル(紋章院総裁)は、紋章院の一員でないが、紋章院を監督する立場にあり、紋章は総裁の同意なしには授与されない。更に、紋章院総裁は、理屈の上では騎士道法廷で紋章の使用に関する事案と論争を審理することになっているが、実際には紋章院総裁は通常、紋章院の専門のヘラルドに職務を任せている。また、当該法廷は1954年以降開廷、審理されていない。

歴史的に、紋章官にはキング・オブ・アームズヘラルド及びパーシヴァントの3つの階級がある。紋章官は、国王の指名により伝統的な称号を持つ職位を占める。
キング・オブ・アームズ

ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズ (Garter Principal King of Arms) - 上席筆頭紋章官。この称号は、
ガーター勲章を指す。

クラレンス・キング・オブ・アームズ (Clarenceux King of Arms) - トレント川以南のイングランドを担当する。

ノロイ & アルスター・キング・オブ・アームズ (Norroy and Ulster King of Arms) - トレント川以北のイングランド(ノロイ)及び北アイルランド(アルスター)を担当する。


ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズ (Garter Principal King of Arms)

クラレンス・キング・オブ・アームズ (Clarenceux King of Arms)

ノロイ & アルスター・キング・オブ・アームズ (Norroy and Ulster King of Arms)

ヘラルド・オブ・アームズ

ヘラルドの称号は、場所への言及又は歴史的に王政と関連した貴族の称号である。

チェスター・ヘラルド (Chester Herald of Arms in Ordinary)

ランカスター・ヘラルド (Lancaster Herald of Arms in Ordinary)

リッチモンドヘラルド (Richmond Herald of Arms in Ordinary)

サマセット・ヘラルド (Somerset Herald of Arms in Ordinary)

ウィンザー・ヘラルド (Windsor Herald of Arms in Ordinary)

ヨーク・ヘラルド (York Herald of Arms in Ordinary)


チェスター・ヘラルド (Chester Herald of Arms in Ordinary)

ランカスター・ヘラルド (Lancaster Herald of Arms in Ordinary)

リッチモンドヘラルド (Richmond Herald of Arms in Ordinary)

サマセット・ヘラルド (Somerset Herald of Arms in Ordinary)

ウィンザー・ヘラルド (Windsor Herald of Arms in Ordinary)


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