紀長谷雄
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 凡例紀 長谷雄
長谷雄草紙』(作者不詳)より
紀長谷雄(左)と朱雀門の双六勝負
時代平安時代前期
生誕承和12年(845年
死没延喜12年2月10日912年3月1日
別名紀納言、字:紀寛
官位従三位中納言
主君清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族紀氏(紀朝臣)
父母父:紀貞範
淑望淑人、淑信、淑光、淑行、淑間、淑方、淑久、淑江
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紀 長谷雄(き の はせお)は、平安時代前期の公卿文人典薬頭紀国守の孫。弾正大忠・紀貞範の子。官位従三位中納言。『竹取物語』の作者の候補者の一人であり、『長谷雄草紙』の主人公。
経歴

若い頃より学問を志し、18歳にして文章をつづることを会得したが、有力な援助者はなく、紀伝道の名家であった菅原氏大江氏などとは異なり、学問を指導し取り立ててくれる人物にも恵まれなかったという[1]

貞観10年(868年)頃より、当時文章得業生であった都良香に師事し詩文を学ぶが、神仙的人物として敬仰された良香からは神仙や怪奇についても影響を受けたともされる[2]。ある夜、紀伝道を学ぶ学生が群飲して「幽人春水に釣す」の題で試作を競った。良香は、ただひとり長谷雄の詩を取り上げて「綴韻の間、甚だ風骨を得る」(韻を綴る間の趣きが非常に優れている)と激賞した。良香のこの一言によって、長谷雄はようやくその名を知られるようになった。しかし、逆にその才能を妬む同じ門人から讒言を受けてしまい、師である良香との関係が次第に疎遠になっていったという[1]

貞観18年(876年)32歳にしてようやく文章生に補せられ、字を紀寛と称した。元慶5年(881年)文章得業生となるが、このころ長谷雄は次第に菅原道真の人柄に引かれ、道真と同門の党を結ぶようになった[3]。元慶6年(882年)には右衛門大尉坂上茂樹と共に掌渤海客使を務め、元慶7年(883年対策に丁科で及第して三階昇進し従七位下に叙せられた。その後、讃岐掾少外記を経て、仁和4年(888年従五位下叙爵するが、道真の推挙によるものとも想定される[4]

宇多朝前半は、図書頭文章博士式部少輔を歴任する。寛平6年(894年)に従五位上・右少弁に叙任されると、寛平7年(895年正五位下、寛平8年(896年従四位下と宇多朝後半は急速に昇進を果たし、この間の寛平7年(895年)に式部少輔・大学頭・文章博士を兼ねて三職兼帯の栄誉に浴し、寛平9年(897年)には式部大輔兼侍従に任ぜられた。また、菅原道真に才能を見込まれ、寛平6年(894年)に計画されるも道真の建議により中止となった最後の遣唐使では副使に補されている。長谷雄の知識や政務能力、そして人柄は宇多天皇からも早くから嘱目されており[5]、宇多上皇が醍醐天皇に与えた御遺戒の中でも、藤原時平菅原道真藤原定国平季長と並べて、長谷雄を「心をしれり、顧問にも、そなわりぬべし[6]」あるいは「博く、経典に渉り、共に大器なり[7]」と評して推挙されている。

醍醐朝に入ると左右大弁の要職を務める。昌泰4年(901年昌泰の変が発生し、師とも仰ぐ右大臣・菅原道真が大宰権帥左遷されて失脚する。この変において長谷雄がどのような態度を取ったかは明らかではないが、道真に深い同情の念を寄せ、無念やるかたのない想いを抱きながらも、恐らく宇多上皇に慰留されて、目立った行動を起こすようなことを慎んでいたと想定される。あるいは行動が逆効果になることを恐れていた可能性もある。それでも、秘かに長谷雄は配所の道真を慰め援助していたと見られ、道真もこの誠意に感じ、配所で作った詩集『菅家後集』を長谷雄に贈っている[8]。長谷雄は道真に心を寄せていたものの、醍醐天皇や執政の左大臣藤原時平も長谷雄の人柄や優れた政務能力を無視できず[8]延喜2年(902年)には参議に任じて公卿に加えた。なお、参議任官を挟んで要職の左大弁を約10年の長期に亘って務めたが、長谷雄が優秀な官人であったことの証明とする意見もある[8]。延喜10年(910年従三位権中納言、延喜11年(911年中納言に至る。醍醐天皇の侍読を務める一方、『延喜格式』の編纂にもあたった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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