凡例紀 船守
時代奈良時代
生誕天平3年(731年)
死没延暦11年4月2日(792年4月27日)
官位正三位、大納言
贈正二位、右大臣
主君称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇
氏族紀氏
父母父:紀猿取
子勝長、楫継、田上、田長、若子
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紀 船守(き の ふなもり)は、奈良時代の公卿。従七位下・紀猿取の子[1]。官位は正三位・大納言、贈正二位・右大臣。 天平宝字年間に授刀舎人となる。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇が淳仁天皇の許にあった駅鈴・内印(天皇の御璽)を回収しようとした際、武装してこれを奪いに現れた仲麻呂方の中衛将監・矢田部老
経歴
神護景雲2年(768年)に検校兵庫将軍の官職が新設されるとその軍監(三等官)に任ぜられる。その後、称徳朝から光仁朝前半にかけて近衛将監を務め、宝亀2年(771年)従五位上に叙せられる。宝亀6年(775年)近衛員外少将、宝亀9年(778年)近衛少将と光仁朝後半も引き続き近衛府の武官を歴任し、宝亀10年(779年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下と光仁朝末に続けて昇叙された。
天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、従四位上・参議兼近衛員外中将に叙任され公卿に列す。桓武天皇の信任が厚く、延暦2年(783年)正四位上・近衛中将、延暦3年(784年)従三位、延暦4年(785年)中納言兼近衛大将、延暦9年(790年)正三位と昇進を続け、延暦10年(791年)大納言に至る。またこの間、延暦3年(784年)には藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、長岡京の造宮を担当している。
延暦11年(792年)4月2日薨去。享年62。最終官位は大納言正三位行式部卿兼近衛大将。桓武天皇は船守の死を深く哀悼し、正二位・右大臣の官位を追贈した[3]。 注記のないものは『六国史』による。
官歴
天平宝字年間:授刀舎人[4]
時期不詳:従七位下
天平宝字8年(764年) 9月11日:従五位下。日付不詳:勲五等[4]
天平神護2年(766年) 2月21日:功田8町。11月29日:検校兵庫軍監
時期不詳:近衛将監
神護景雲3年(769年) 3月10日:兼紀伊介
神護景雲4年(770年) 8月28日:兼紀伊守
宝亀2年(771年) 閏3月1日:兼但馬介。11月25日:従五位上
宝亀5年(774年) 日付不詳:兼内厩助[4]
宝亀6年(775年) 9月27日:近衛員外少将、紀伊守如故
宝亀8年(777年) 正月25日:兼土佐守
宝亀9年(778年) 2月23日:近衛少将、内厩助土左守如故
宝亀10年(779年) 正月13日:正五位上(越階)
宝亀11年(780年) 10月13日:従四位下
天応元年(781年) 4月15日:従四位上。5月7日:近衛員外中将。6月27日:参議。7月10日:兼内厩頭
延暦元年(782年) 6月20日:兼常陸守。6月21日:正四位下
延暦2年(783年) 2月25日:兼近衛中将、内厩頭常陸守如故。7月19日:正四位上
延暦3年(784年) 6月10日:造長岡宮使
延暦4年(785年) 正月15日:近衛大将、中宮大夫常陸守如故。11月25日:中納言
延暦5年(786年) 2月17日:兼式部卿、常陸守如故
延暦9年(790年) 2月27日:正三位
延暦10年(791年) 正月16日:大納言
延暦11年(792年) 正月23日:賜田40町。4月2日:薨去(大納言正三位行式部卿兼近衛大将)。贈正二位、右大臣
系譜
父:紀猿取[4]
母:不詳
生母不明の子女
長男:紀勝長[4](754-806)
次男:紀楫継[5]
三男:紀田上[6](770-825)
男子:紀田長[7]
女子:紀若子[8] - 桓武天皇宮人
脚注^ 『日本後紀』天長2年4月13日条
^ 『続日本紀』天平宝字8年9月11日条
^ 『日本後紀』延暦11年4月2日条
^ a b c d e 『公卿補任』
^ 鈴木真年『諸系譜』第1冊,紀朝臣
^ 『日本後紀』天長2年4月13日条
^ 『尊卑分脈』
^ 『続日本後紀』承和元年2月13日条
参考文献
宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年