凡例紀田上
時代平安時代初期
生誕宝亀元年(770年)
死没天長2年4月13日(825年5月4日)
官位従四位下・尾張守
主君桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇
氏族紀氏
父母父:紀船守
兄弟勝長、楫継、田上、田長、若子
子深江、野永、永直
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紀 田上(き の たうえ/たがみ)は、平安時代初期の貴族。大納言・紀船守の三男。官位は従四位下・尾張守。 桓武朝の延暦22年(803年)従五位下に叙爵し、延暦23年(804年)内厩助次いで相模介に任ぜられ地方官に転じる。平城朝に入ると大同元年(806年)従五位上・相模守、大同3年(808年)正五位下に叙任されるなど順調に昇進する。 大同4年(809年)相模守の任期を終えて帰京するが、平城上皇に従い平城京に移る[1]。大同5年(810年)正五位上次いで従四位下に続けて昇叙される。同年9月に発生した薬子の変に際しては、6日に嵯峨天皇の信頼が篤い坂上田村麻呂・藤原冬嗣と共に平城京の造宮使に、10日には尾張守に任ぜられるが、結局平城上皇側で活動したらしく、変平定後の15日には佐渡権守に左遷されている。 天長元年(824年)平城上皇の崩御に伴い罪を赦されて帰京するが、天長2年(825年)4月13日卒去。享年56。最終官位は散位従四位下。 武芸を家業とする紀氏の中にあって、華やかな才能があるとして評判が高く、政務にあたっては民心を失うことがなかったという[1]。 『日本後紀』による。
経歴
人物
官歴
延暦22年(803年) 日付不詳:従五位下
延暦23年(804年) 4月8日:内厩助。9月10日:相模介
大同元年(806年) 日付不詳:従五位上。相模守
大同3年(808年) 11月17日:正五位下
大同5年(810年) 4月19日:正五位上。8月20日:従四位下。9月6日:造宮使。9月10日:尾張守。9月15日:佐渡権守(薬子の変)
天長元年(824年) 日付不詳:帰京
天長2年(825年) 4月13日:卒去(散位従四位下)
系譜
父:紀船守[1]
母:不詳
生母不明の子女
男子:紀深江[2](790-840)
男子:紀野永[3]
男子:紀永直[3]
脚注^ a b c 『日本後紀』天長2年4月13日条
^ 『続日本後紀』承和7年10月5日条
^ a b 『尊卑分脈』
参考文献
森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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