紀広浜
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 凡例紀広浜
時代平安時代初期
生誕天平宝字3年(759年
死没弘仁10年7月2日819年7月27日
官位正四位下参議
主君桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族紀氏
父母父:紀古佐美
兄弟咋麻呂、広浜、男仲、與須賀、道成、
末成、女子
善峯長江
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紀 広浜(き の ひろはま)は、平安時代初期の貴族大納言紀古佐美の長男。官位正四位下参議
目次

1 経歴

2 官歴

3 系譜

4 脚注

5 参考文献

経歴

延暦14年(795年長門介に任ぜられる。延暦16年(797年)父の大納言紀古佐美の薨去に前後して少判事に遷ると、式部大丞勘解由判官と京官を務め、延暦18年(799年従五位下肥後守に叙任される。延暦24年(805年)従五位上。

平城朝に入ると俄に重用され、大同2年(807年正五位下右中弁、大同3年(808年従四位下と急速に昇進し、嵯峨朝初頭の大同4年(809年)には畿内観察使に任ぜられ公卿に列す。翌大同5年(810年)観察使制度の廃止により参議となり、右大弁に大学頭を兼ねる。

嵯峨朝では議政官として右大弁・右兵衛督と文武の官職を兼帯したのち、弘仁7年(816年)には大宰大弐を兼ねる一方、弘仁6年(815年)には従四位上に叙せられている。また、弘仁3年(812年)多人長を博士として行われた『日本書紀』の講義にも参席した[1]。弘仁10年(819年)正月に正四位下に至るが、同年7月2日卒去享年61。最終官位は参議正四位下行大宰大弐。
官歴

注記のないものは『日本後紀』による。

延暦14年(795年) 2月8日:長門介[2]

延暦16年(797年) 日付不詳:少判事[2]。6月6日:式部大丞[2]。9月4日:勘解由判官[2]

時期不詳:正六位上

延暦18年(799年) 5月7日:従五位下肥後守[2]

延暦24年(805年) 6月19日:従五位上

大同2年(807年) 2月3日:正五位下。2月29日:右中弁[2]。9月16日:兼内蔵頭[2]

大同3年(808年) 正月25日:従四位下。7月:左京大夫[2]。8月22日:兼美濃守、11月27日:右京大夫、美濃守如元

大同4年(809年) 9月19日:畿内観察使

大同5年(810年) 正月11日:兼上野守[2]。4月16日:左京大夫[2]。6月10日:停観察使[2]。8月15日:右大弁[2]。8月21日:兼大学頭[2]。9月10日:参議[2]

弘仁2年(811年) 6月1日:兼右兵衛督、右大弁大学頭上野守如元

弘仁6年(815年) 正月7日:従四位上。4月8日:賜田10町

弘仁7年(816年) 正月10日:兼大宰大弐、去右大弁か[2]

弘仁10年(819年) 正月7日:正四位下。7月2日:卒去(参議正四位下行大宰大弐)

系譜

尊卑分脈』による。

父:紀古佐美[2]

母:不詳

生母不詳の子女

男子:紀善峯(?-837)

男子:紀長江 - 大宰大弐従四位上


脚注^ 『日本後紀』弘仁3年6月2日条
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『公卿補任』

参考文献

森田悌『日本後紀 (中)』講談社学術文庫、2006年

森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年

『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年

『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年


更新日時:2019年1月2日(水)06:08
取得日時:2019/07/27 00:28


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