紀州征伐
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紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代安土桃山時代)における織田信長羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。
中世を体現する国、紀伊

ルイス・フロイスによると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山粉河寺根来寺雑賀衆[1] の名を挙げている。フロイスは言及していないが、5つめの共和国は熊野三山と思われる[2]。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆[3] は高い経済力[4] と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった[5]

紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)[6]、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。

室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。
治外法権の地、境内都市

中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった[7][8]。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性[9] と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である[10]
「惣分」と「惣国」

当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶と寺の実務を執り行う行人があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏[11]、杉之坊が津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉河内大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人[12] たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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