世紀前8世紀 - 前7世紀 - 前6世紀
十年紀前680年代 前670年代
前660年代
前650年代 前640年代
年前663年 前662年 前661年
紀元前660年
紀元前660年(きげんぜん660ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元94年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前660年と表記されるのが一般的となった。 本節は、特記ない限り『春秋左氏伝』閔公2年の記述にもとづく。
他の紀年法
干支 : 辛酉
日本
皇紀元年
神武天皇元年
中国
周 - 恵王17年
魯 - 閔公2年
斉 - 桓公26年
晋 - 献公17年
秦 - 成公4年
楚 - 成王12年
宋 - 桓公22年
衛 - 戴公元年
陳 - 宣公33年
蔡 - 穆侯15年
曹 - 昭公2年
鄭 - 文公13年
燕 - 荘公31年
朝鮮
檀紀1674年
ユダヤ暦 : 3101年 - 3102年
できごと月岡芳年 『大日本名将鑑』の内「神武天皇」(1876-1882年頃の作)
2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日) - 神武天皇が即位したとされる(『日本書紀』に基づく)。詳しくは「紀元節」を参照のこと。
神武天皇即位紀元(皇紀)元年に当たる年。年の干支は辛酉で、中国の讖緯説では革命が起こる年とされている(辛酉革命説を参照)。『日本書紀』「神武天皇元年正月朔の条」に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是?為天皇元年」とあり、その訓は「辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮[1](かしはらのみや)に於(お)いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為(な)す」[2]。この年の春正月(立春)に一番近い庚辰日はグレゴリオ暦換算では2月11日に当たり、日本の建国記念の日の由来となっている。また、天文学的計算でもこの日は朔(さく)に当たる。
古代ギリシアの都市国家オリュンピア(オリンピア)で、第30回オリュンピア大祭(古代オリンピック)が開催される。
古代エジプトの文字の一種、デモティック(民衆文字)の使用が確認される最古の年である。
史上最大級の太陽嵐が発生したとの説が出されている[3]。
中国
?が犬戎を渭?で破った。?の舟之僑が晋に亡命した。
魯の慶父が閔公を殺害した。慶父は?に、哀姜は?に亡命した。
斉の高子が魯に赴いて盟を交わした。
狄が衛を攻撃し、?沢で衛軍を破り、衛を滅ぼした。懿公は殺害された。斉の桓公は曹に衛の遺民を集めて戴公を擁立させた。
鄭の高克が陳に亡命した。
晋の献公が太子申生に東山皋落氏を攻めさせた。
誕生
死去
魯の閔公
秦の成公[4]
衛の懿公
衛の戴公
脚注・出典[脚注の使い方]^ cf. 橿原神宮
^ 「朔」は元来は月齢(太陰暦)1日のことで、この記述日の干支は庚辰。
^ “過去70年に観測された10倍規模の太陽嵐が、2610年前に発生していた”
^ 『史記』十二諸侯年表