世紀前8世紀 - 前7世紀 - 前6世紀
十年紀前670年代 前660年代
前650年代
前640年代 前630年代
年前654年 前653年 前652年
紀元前651年
紀元前651年(きげんぜん651ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元103年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前651年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
干支 : 庚午
日本
皇紀10年
神武天皇10年
中国
周 - 襄王元年
魯 - 僖公9年
斉 - 桓公35年
晋 - 献公26年
秦 - 穆公9年
楚 - 成王21年
宋 - 桓公31年
衛 - 文公9年
陳 - 宣公42年
蔡 - 穆侯24年
曹 - 共公2年
鄭 - 文公22年
燕 - 襄公7年
朝鮮
檀紀1683年
ユダヤ暦 : 3110年 - 3111年
できごと
中国
周の宰孔・斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公が葵丘で会盟した。
晋の献公が死去し、里克と丕鄭が重耳を迎えようとして乱を起こした。里克は献公の子の奚斉を殺した。荀息が卓子を国君に迎えた。里克が卓子を殺すと、荀息は殉死した。
斉の桓公が晋の乱を収拾するべく諸侯の軍を率いて晋を攻撃し、高梁まで進軍して帰還した。
晋の夷吾が郤?の助言に従って秦に黄河西岸の5城の割譲を約束し、帰国の援助を得た。斉の隰朋(中国語版)が軍を率いて秦軍と合流し、夷吾を晋に帰国させた。夷吾は国君として即位した。これが晋の恵公である。
宋の襄公が即位し、庶兄の目夷(中国語版)を左師として国政を委ねた。
誕生
死去
宋の桓公
晋の献公
驪姫
奚斉
卓子
荀息