世紀前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀
十年紀前560年代 前550年代
前540年代
前530年代 前520年代
年前546年 前545年 前544年
紀元前543年
紀元前543年(きげんぜんごひゃくよんじゅうさんねん)は、西暦(ローマ暦)による年。
紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元211年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前543年と表記されるのが一般的となった。
南伝(上座部仏教)説では、釈迦入滅の翌年とされ、タイ、カンボジア、ラオスでは、この年を仏滅紀元(仏暦)元年とする[1]。
他の紀年法
干支 : 戊午
日本
皇紀118年
安寧天皇6年
中国
周 - 景王2年
魯 - 襄公30年
斉 - 景公5年
晋 - 平公15年
秦 - 景公34年
楚 - ?敖2年
宋 - 平公33年
衛 - 襄公元年
陳 - 哀公26年
蔡 - 景侯49年
曹 - 武公12年
鄭 - 簡公23年
燕 - 恵公2年
呉 - 余祭5年
朝鮮
檀紀1791年
ベトナム :
仏滅紀元 : 2年
ユダヤ暦 : 3218年 - 3219年
できごと
インド
ウィジャヤが北インドからセイロン島へ侵攻し、シンハラ人の王朝が開かれた。
ギリシア
アテナイの僭主ペイシストラトスが、デロス島のアポローンの神殿近くにあった古い墓地を撤去し、デロス島を聖地として浄化した[2]。
中国
余昧が、前年に殺された兄王余祭を継いで、呉の王に即位した。
鄭の簡公が大夫たちと盟を結んだ。
蔡の景侯が子の姫般に殺害された。
宋で火災があり、伯姫が焼死した。
鄭の良霄が公孫黒の攻撃を受けて許に亡命した。良霄は罕虎(子皮)を頼って帰国したが、駟帯と戦って羊肆で殺害された。
周の?括が景王の弟の佞夫の擁立を図った。このため尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成らが佞夫を殺害した。?括・王子瑕らが晋に亡命した。
楚の公子囲が大司馬の?掩を殺害した。
晋・斉・宋・衛・鄭・曹・?・?・滕・薛・杞・小?が?淵で会合した。
鄭の罕虎が子産に政務を委譲した。
誕生
子路 - 孔門十哲のひとり。(紀元前481年没:生没年ともそれぞれ1年後とする説もある)
死去
景侯 - 蔡の君主
脚注^ ミャンマーやスリランカでは、入滅の年である紀元前544年を元年とする。
^ “ ⇒Peisistratus”. Encyclopadia Britannica, Inc.. 2015年7月5日閲覧。
関連項目
年表