世紀前6世紀 - 前5世紀 - 前4世紀
十年紀前500年代 前490年代
前480年代
前470年代 前460年代
年前486年 前485年 前484年
紀元前483年
紀元前483年(きげんぜん483ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ウィブラヌスとポティトゥスが共和政ローマ執政官に就任した最初の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元271年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前483年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
干支 : 戊午
日本
皇紀178年
懿徳天皇28年
中国
周 - 敬王37年
魯 - 哀公12年
斉 - 簡公2年
晋 - 定公29年
秦 - 悼公8年
楚 - 恵王6年
宋 - 景公34年
衛 - 出公10年
陳 - ?公19年
蔡 - 成侯8年
鄭 - 声公18年
燕 - 孝公10年
呉 - 夫差13年
朝鮮
檀紀1851年
ベトナム :
仏滅紀元 : 62年
ユダヤ暦 : 3278年 - 3279年
できごと
ペルシア
アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は、従兄弟で義兄弟のマルドニオスから、ギリシアからの亡命部隊の支援を得て、紀元前490年のマラトンの戦いの復讐を行うようそそのかされた。それに従って、クセルクセス1世はギリシアへの遠征の準備を進めた。紀元前492年に多くの兵を失った事態が再び起こるのを避けるため、クセルクセス1世はアトス山の岬を切り開いて運河を作った。
ギリシア
アテナイのアルコンであるテミトクレスは、ギリシアは海戦でペルシアを破るべきであることに気づいた。しかし、この戦略を実行するためには、アテナイには、現有の70隻よりも遙かに多くの三段櫂船が必要であった。テミトクレスは、当初は他の指導者から反対されていたが、ラブリオの公営銀山で多くの銀が産出されると、議会を説得し、余剰金の全てを海軍の増強に回して200隻を建造した。
インド
釈迦の遺骨(仏舎利)は8つの部分に分けられ、8つの聖骨箱に分納された。それぞれの聖骨箱は、卒塔婆と呼ばれる埋葬塚に収められた。アショーカ王は8つの卒塔婆を開き、遺骨をさらに多くの卒塔婆に分けた。恐らくそのうちの1つはサーンチーであると考えられている。
中国
呉と魯が?皋で会合した。
魯と衛と宋が?で会合した。
宋の向巣が鄭を攻撃して?を占領し、元公の孫を殺し、嵒を包囲した。鄭の罕達が嵒を救援し、宋軍を包囲した。