紀元前404年
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紀元前404年(きげんぜん404ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「ウォルスス、コッスス、フィデナス、アムブストゥス、マルギネンシス、ルティルスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元350年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前404年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法

干支 : 丁丑

日本

皇紀257年

孝昭天皇72年


中国

- 威烈王22年

- 簡公11年

- 烈公12年

- 声王4年

- 康公元年

- 簡公11年

- 烈侯5年

- 文侯42年

- 景侯5年


朝鮮

檀紀1930年


ベトナム :

仏滅紀元 : 141年

ユダヤ暦 : 3357年 - 3358年

できごと
ギリシア

アテナイの指導者クレオポン (Cleophon) は、ペロポネソス同盟への抵抗を主張し続けたが、状況は絶望的になり、クレオポンは逮捕され、やがて死刑の判決が下り、処刑された。

4月25日、避難民多数が逃げ込み、疫病と飢えで弱体化したアテナイは、条件付き降伏を受け入れ、ペロポネソス戦争が終わった。

テラメネス (Theramenes) は、アテナイの町を破壊から守るという条件を勝ち取った。スパルタは、アテナイの独立の維持を認めた。しかし、アテナイは他所の領土をすべて失い、残存していた艦隊も失い、スパルタの同盟国とされた。アテナイの長城 (Long Walls) は破壊された。エーゲ海対岸のイオニアにあったギリシア系の諸都市は、再び アケメネス朝ペルシア帝国の支配下に入った。

スパルタの将軍リュサンドロスは、アテナイに傀儡政権として寡頭制三十人僭主政権を設け、その指導者クリティアスの下に、テラメネスなども僭主の中に加わらせた。この政権は、多数の市民を処刑したり、権利の剥奪を行なった。

かつてアテナイの同盟(デロス同盟)に加わっていた諸都市の多くで、「十人支配 (decarchy)」の統治制度が導入され、さらにスパルタの指揮官(Harmost)のもとに置かれた駐屯地が設けられたところも多かった。

アテナイの将軍トラシュブロスは、三十人僭主政権に追放され、テーバイへ引退した。

アイゴスポタモイの海戦におけるスパルタの勝利の後、かつてアテナイの指導者であったアルキビアデスは、小アジア北西部フリュギアサトラップ(太守)パルナバゾスの下に亡命し、アテナイへの支援を求めて活動していた。


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