この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "紀元前2世紀"
千年紀:紀元前1千年紀
世紀:前3世紀 - 紀元前2世紀 - 前1世紀
十年紀:前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 前150年代
前140年代 前130年代 前120年代 前110年代 前100年代
張騫使節団。前漢の武帝の命により大月氏へと派遣され、西域との交流といわゆるシルクロード(絲綢之路)の発展を促した。画像は敦煌莫高窟に描かれた張騫。
紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。
できごと漢の景帝陵(陽陵)(中国語版)。景帝は呉楚七国の乱を平定したことで父の文帝から続く前漢の安定期である「文景の治」を現出した。画像は景帝陵に副葬されていた陶俑の数々(咸陽漢陽陵博物館(中国語版)蔵)。馬王堆漢墓。1972年に湖南省長沙市で発見された前漢長沙国の高官利蒼一族の墳墓で、生けるがごとく保存状態の良い利蒼夫人辛追の遺体が埋葬されていた。画像はその朱塗りの漆の模様が描かれた木棺(湖南省博物館蔵)。南越国の繁栄と没落。南越は5代93年にわたり中国南部からベトナム北部を支配した王国で前漢に秘してひそかに帝位を称するほどであったが、前漢の武帝により滅ぼされた。画像は趙?陵墓で発見された王の遺体を包んでいた絲縷玉衣(西漢南越王博物館蔵)。雲南の?。漢の南方拡大は南越だけでなく雲南にも及び、西南夷とされた彼らも武帝の時代までには漢の支配下に組み込まれた。画像は雲南省晋寧県石寨山出土の「七牛貯貝器(上海博物館蔵)」。ペルガモンのゼウス大祭壇。ドイツの発掘調査と遺物の移送により「神々と巨人族との戦い(ギガントマキア)」の浮彫を含む往時の姿がベルリンのペルガモン博物館で再現されている。サモトラケのニケ。ヘレニズム芸術を代表する作品で現在はルーヴル美術館の所蔵となっている。アンティキティラ島の機械。天体運行を計算するための歯車式の機械であり、古代ギリシアの技術の高さを裏付ける貴重な証拠となっている。沈没船から発見され、現在はアテネ国立考古学博物館の所蔵となっている。ロゼッタ・ストーン。もとはプトレマイオス5世がメンフィスで出した勅令を刻んだもので、神聖文字・民衆文字・ギリシア文字が併記されていたことからシャンポリオンが神聖文字の解読するための足掛かりとなった。現在は大英博物館の所蔵となっている。パルティア王国の拡大。西アジアではイラン系遊牧民が建てた国家パルティアが国王ミトラダテス1世の時代に勢力を拡大した。画像はイランのフーゼスターン州イゼーのXong-e Ashdarにあるミトラダテス1世を記念する浮彫。メナンドロス1世。ヘレニズム系ギリシア人によるインド・グリーク朝の国王で仏典の『ミリンダ王の問い』では仏教に帰依したことで知られている。画像はこの王の肖像が刻まれたコイン(大英博物館蔵)。カルタゴ陥落。第三次ポエニ戦争によりローマは宿敵カルタゴを制圧。住民を捕虜奴隷にし、都市機能を完膚なきまでに破壊した。画像は19世紀のイギリス人画家エドワード・ポインターのカルタゴ包囲戦の歴史画で、中央に投石器(カタパルト)が描かれている。グラックス兄弟の改革。ポエニ戦争終結後のローマ社会構造の大きな変化に合わせるべく改革が行われたが、元老院派の反発が強く兄弟の改革は挫折した。画像はフランソワ・トピノ・ルブラン(英語版)による歴史画「ガイウス・グラックスの死」。
東アジア
紀元前200年 - 白登山の戦いで匈奴の冒頓単于が前漢の劉邦を破る。
紀元前196年 - 淮陰侯韓信・梁王彭越・淮南王英布が処刑される。
紀元前195年
前漢で高祖劉邦が死去、恵帝が即位( - 紀元前188年)。呂后の専横が始まる。
燕の衛満が箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる( - 紀元前108年)。
紀元前180年 - 前漢で呂后死去。呂氏の乱にて呂氏一族が誅殺され、文帝が即位( - 紀元前157年)。
紀元前177年 - 匈奴の冒頓単于が月氏(ユエジ)を攻撃し、月氏は大月氏・小月氏に分裂する。
大月氏はサカ族を逐ってイリ地方のイシク湖周辺に移動し、小月氏は甘粛・青海に留まる。
紀元前162年 - 匈奴の老上単于が大月氏の王を敗死させ、大月氏はソグディアナ(粟特)に移動。
大月氏はその後、隣接するトハラ(大夏)も支配下に置く。
紀元前161年 - 匈奴の老上単于が死去し、その支配下にあった烏孫が西方に移動。
紀元前157年 - 前漢で文帝が死去し、景帝が即位( - 紀元前141年)。
西安市白鹿原江村大墓が文帝の帝陵「覇陵」とされている。