世紀前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀
十年紀前210年代 前200年代
前190年代
前180年代 前170年代
年前195年 前194年 前193年
紀元前192年
紀元前192年(きげんぜん192ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元562年、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが執政官の年[1]。
他の紀年法.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この節は、ウィキプロジェクト 紀年法のガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。凡例
分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
干支 : 己酉
日本
孝元天皇23年
皇紀469年
中国
前漢 : 恵帝3年
朝鮮
檀紀2142年
仏滅紀元 : 353年
ユダヤ暦 : 3569年 - 3570年
できごと
共和政ローマ
アンティオコス3世と戦争に突入した場合はアヘノバルブスが担当することになっていたが、結局両執政官ともボイイ族とリグリア人相手の作戦を展開した[1]。
プラエトル(法務官)アウルス・アティリウス・セッラヌスは、スパルタのナビスに対する作戦を展開した[1]。
プロコンスル(前執政官)マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)がヒスパニア・ウルテリオルでオレタニ族らに勝利し、クィントゥス・ミヌキウス・テルムスがピサエ周辺でリグリア人に勝利した[2]。
前年のアンティオコスに対するレガトゥス(使節)プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス、プブリウス・ウィッリウス・タップルス、プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官)[3]が帰国し、状況を報告した[2]。