紀元前190年
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紀元前190年(きげんぜん190ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元564年、ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスガイウス・ラエリウス執政官の年[1]
他の紀年法.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この節は、ウィキプロジェクト 紀年法ガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。凡例

分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。

「中国周辺」は、「広義の北アジア中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。

一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。

仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。

皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。

檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。

主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。

仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。


干支 : 辛亥

日本

孝元天皇25年

皇紀471年


中国

前漢 : 恵帝5年


朝鮮

檀紀2144年


仏滅紀元 : 355年

ユダヤ暦 : 3571年 - 3572年

できごと
ギリシア

共和政ローマと同盟したロドス島及びペルガモン艦隊と、セレウコス朝の艦隊との間でエウリュメドン川の戦いが勃発した。セレウコス朝の軍はカルタゴハンニバルに率いられていたが、ロドス島の同盟軍が勝利し、ハンニバルは敗走した。

マケドニア王国ピリッポス5世バルカン半島の敵に対抗するためローマを支援し、貢ぎ物を送ったため、長年ローマに人質として囚われていた息子のデメトリオスを返してもらうことができた。

共和政ローマ

執政官スキピオ・アシアティクスは、ギリシアで
アンティオコス3世 (セレウコス朝)と戦うインペリウム(指揮権)を得て、マグネシアの戦いに勝利した[1]。兄のスキピオ・アフリカヌスレガトゥス(副官)として、外交・軍事面でサポートした[2]

プラエトル(法務官)ルキウス・アエミリウス・レギッルスは、ミョンネッススの戦いでアンティオコスの艦隊を撃破した[1]

プロコンスル(前執政官)マニウス・アキリウス・グラブリオは、スキピオ・アシアティクスの到着を待って帰国し、凱旋式を挙行した[3]

プロコンスルのルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスルシタニア人に敗北した[4]

プラケンティアクレモナに入植者が追加された[5]

セレウコス朝

共和政ローマからの脅威が増し、アンティオコス3世はローマの要求に基づいて交渉をしようとした。ローマ側は
トロス山脈の西側を手放すように要求したが、アンティオコス3世が拒否すると、リディアの平原でマグネシアの戦いが勃発した。ローマ側が勝利し、セレウコス朝はギリシアの支配権を失った。

アンティオコス3世が敗北すると、アルメニアサトラップであるアルタクセス1世とザリアドレスは、セレウコス朝からの独立を宣言した。ローマの承認を経て、彼らはそれぞれアルメニア王国小アルメニア王国の王になった。アルタクセス1世はセヴァン湖のそばに首都アルタシャトを建設した。

ローマ軍に加勢した見返りに、エウメネス2世ソテルは大きな領土を与えられた。エウメネス2世はゲリボル半島とセレウコス朝が支配していたアナトリアの大部分の支配権を得た。

芸術

サモトラキ島ニーケー像が作られた。これは1863年に発見され、現在はパリのルーブル美術館に収蔵されている。

誕生「Category:紀元前190年生」も参照

ヒッパルコス、ギリシアの天文学者、地理学者、数学者(+ 紀元前120年

コルネリア・アフリカナスキピオ・アフリカヌスの娘、グラックス兄弟の母(+ 紀元前100年)

死去「Category:紀元前190年没」も参照

ペルガのアポロニウス、ギリシアの天文学者、地理学者、数学者(* 紀元前262年

曹参前漢創設功労者のひとり、相国(* 生年不明)

脚注

注釈

出典[脚注の使い方]^ a b c MRR1, p. 356.


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