紀元前168年
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紀元前168年(きげんぜん168ねん)は、ローマ暦の年である。
他の紀年法.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この節は、ウィキプロジェクト 紀年法ガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。凡例

分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。

「中国周辺」は、「広義の北アジア中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。

一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。

仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。

皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。

檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。

主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。

仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。


干支 : 癸酉

日本

孝元天皇47年

皇紀493年


中国

前漢 : 文帝12年


朝鮮

檀紀2166年


仏滅紀元 : 377年

ユダヤ暦 : 3593年 - 3594年

できごと
ギリシア

イリュリア王ゲンティオス(英語版)が、ルキウス・アニキウス・ガッルス率いるローマ軍にシュコドラで敗れる。ゲンティオスは捕虜としてローマに連行され、グッビオに抑留された。イリュリアはマケドニア王国の重要な同盟相手だったが、この敗戦によってマケドニアを離れ、ローマはペルセウス率いるマケドニアを効果的に弱体化させることに成功した。

ローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス執政官に選出され、ペルセウスに釘づけにされていたローマ軍を率いるためテッサリアに到着する。

6月22日 - ルキウス・アエミリウス・パウルス率いるローマ軍がピュドナの戦いでペルセウス率いるマケドニア軍に圧勝。これにより第三次マケドニア戦争が終結する。ペルセウスは捕えられ、前168年に没するまでローマ近郊のアルバ・フーケンス(英語版)で虜囚として過ごすこととなった。

マケドニア王国がローマによって4つに分割され、マケドニアに協力したギリシアの全都市が罰せられる。ローマはマケドニアの主要な一族から歴史家ポリュビオスを含む数百人を捕虜とした。

エジプト

プトレマイオス6世プトレマイオス8世クレオパトラ2世による共同支配体制は、ローマに対して支援を求める新たな要求を送った。

セレウコス朝

アンティオコス4世の軍はキプロスでの戦いに勝利し、知事は島を差し出した。

アンティオコス4世はその後エジプトに再び侵攻し、下エジプトを占拠して軍はアレクサンドリア郊外に拠点を構えた。しかしローマの大使Gaius Popillius Laenasがそれに介入した。彼はアンティオコス4世に、エジプトとキプロスから即刻立ち退くよう最後通告を送った。不意を突かれたアンティオコスは検討する時間を求めたが、Popilliusは王の周りの地面に杖で円を描き、アンティオコスがこの円から出る前に明確な回答をするよう求めた。ローマとの戦争を恐れ、王は大使の要求に従うことを決めた。その見返りとして、ローマはアンティオコス4世がシリア南部を保有することを認めた。


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