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千年紀:紀元前2千年紀
世紀:前14世紀 - 紀元前13世紀 - 前12世紀
紀元前13世紀(きげんぜんじゅうさんせいき)は、西暦による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す世紀。「后母戊大方鼎(司母戊大方鼎)」。現存する最大の殷の青銅器で現在は北京の中国国家博物館所蔵となっている。アブ・シンベル神殿。青年期から壮年期までの4体のラムセス2世像が置かれている。1960年代にアスワン・ハイダムが上流に建設されるため、ユネスコの協力を得てもともとの場所から60m離れた場所に移築されたことでも有名。『アニのパピルス』。古代エジプトでは死後の世界を詳細に記した「死者の書」が作られた。テーベで発見されたこの作品は書記官アニに捧げられたもので、現在は大英博物館に所蔵されている。デイル・アル・バラ。ラムセス2世の遠征でカナンと隣接するエジプト最東端の要塞となったのがデイル・アル・バラである。画像はこの地から出土した青銅器時代後期の人型の棺(イスラエル博物館蔵)。ハットゥシャの青銅板。
出来事
紀元前1300年代
紀元前1300年頃
アッシリア王アダド・ニラリ1世がミタンニ王(ハニガルバドの君主)ワサシャッタを破り首都タイデを占領。
黒海東南にグルジア人によるコルキス王国が成立する。
コルキスはギリシア神話ではプリクソスの金羊毛伝説や、イアソンのアルゴナウタイ伝説の舞台であった。
ヒッタイト王ムルシリ2世がアナトリア西部のアルザワ(英語版)国を征服。
アルザワはハパラ(ミシア)・ミラ(カリアとルッカ)・セハ(リディア)の三つの行政区に分割される。
中央ヨーロッパは後期青銅器時代(ウルネンフェルト文化(骨壺墓地文化) - 紀元前700年頃)。
後期ミケーネ文明(後期ヘラディック期III)。
ミケーネ遺跡の「獅子門(英語版)」が建設される。アルカディコ橋(カザルマ橋)が建設される。
ミケーネの「「戦士のクラーテル」の邸宅」出土の「戦士のクラーテル(英語版)」が作られる。
シチリア島東部にイタリック系シケル人(海の民のシェケルシュ人か)が定住する。
パンターリカの岩壁墓地遺跡の最古層はこの時代に相当すると考えられている。
シケル人に先行してシチリア島中央部にはシカニ人、西北部にはエリミ人が定住していた。
殷の盤庚が黄河南岸の亳(殷)に遷都(夏商周年表プロジェクトによる)。
長江流域でも殷の影響を受けて独特の青銅器文化が展開する( - 紀元前1100年頃)。
湖南省寧郷県月山鋪出土の「四羊方尊(中国語版)(中国国家博物館蔵)」はこの時期のもの。
紀元前1290年代
紀元前1293年頃 - エジプト王ホルエムヘブが死去し、宰相が即位してラムセス1世となる。
エジプト第18王朝が終わり、エジプト第19王朝が始まる。
紀元前1290年頃 - エジプト王ラムセス2世が即位、テーベからナイル川デルタ地帯のペル・ラムセスに遷都。
紀元前1280年代
紀元前1286年 - カデシュの戦い。
エジプト(ラムセス2世)とヒッタイト(ムワタリ2世)とがシリアの支配権を賭けオロンテス川河畔のカデシュで戦う。
シリアへの影響を保持したムワタリ2世は、ハットゥシャからタルフンタッサ(英語版)に都を遷す。
紀元前1280年頃 - ウィルサ(英語版)王アラクサンドゥ(英語版)とヒッタイト王ムワタリ2世が条約を結ぶ(アラクサンドゥ条約)。
ウィルサはトロイと推定され、この条約を誓う対象としてのアパリウナス(英語版)神はアポロン神の祖形と推定されている。
紀元前1260年代
紀元前1269年 - エジプト・ヒッタイト平和条約(Egyptian?Hittite peace treaty)の締結。
エジプト王ラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世によるもので史上知られている最古の平和条約。
ハットゥシリ3世の娘サウシュカヌがラムセス2世の妃としてエジプトに送られる。
紀元前1263年頃 - アッシリア王シャルマネセル1世がミタンニ王シャトゥアラ2世を撃破し領土を完全に併合。
紀元前1260年頃 - モーセがファラオ(ラムセス2世か)の迫害に苦しむイスラエルの民を率いてエジプトを脱出[1](出エジプト記に基づく有力説の一つ)。
紀元前1250年代
紀元前1250年頃
メソアメリカ・オルメカのサン・ロレンソの繁栄始まる(チチャーラス相 - 紀元前1150年頃)。
エラム王ウンタシュ・ナピリシャによりチョガ・ザンビール遺跡のジッグラトが建設される。