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出典検索?: "紀元前12世紀"
千年紀:紀元前2千年紀
世紀:前13世紀 - 紀元前12世紀 - 前11世紀
デルタの戦い。画像はこの戦いで「海の民」と戦うエジプト第20王朝のファラオ・ラムセス3世(メディネト・ハブ(英語版)のラムセス3世葬祭殿(英語版)の浮き彫り)。ペリシテ人。「海の民」を構成していたと伝わる民族で、この時期までには地中海東岸に大きな勢力を伸長していた。ミケーネVC式土器と同質の土器がペリシテ人の遺跡から出土するのが興味深い。画像はイスラエル・アシュドドのペリシテ人文化博物館が所蔵するペリシテ人の土器一式。ウガリット遺跡。楔形文字を表音文字化したウガリット文字の粘土板が大量に出土したことでも知られる。画像は前1200年のカタストロフで廃墟となった宮殿の入り口。トロイア遺跡。シュリーマンらによりホメロスの叙事詩に語られていた都市イリオンと推定されたのがダーダネルス海峡に近接したヒサルリク(英語版)の遺構であった。この遺構の第7層が紀元前12世紀に相当し、この時期何らかの大きな動きがあったものと考えられる。オルメカの巨石人頭像(カベサ・オルメカ)。メソアメリカ最古のオルメカ文化ではサン・ロレンソ一帯の繁栄が見られた。ラ・ベンタに繁栄の中心が移る紀元前900年代までをサン・ロレンソ相と呼ぶ。画像はベラクルス州立大学附属のハラパ人類学博物館所蔵のサン・ロレンソ1号の巨石人頭像。
紀元前12世紀(きげんぜんじゅうにせいき)は、西暦による紀元前1200年から紀元前1101年までの100年間を指す世紀。
出来事
紀元前1200年代
紀元前1200年頃
「紀元前1200年のカタストロフ」。
気候変動による東地中海の旱魃・ヒッタイト王国の崩壊・「海の民」のエジプト侵攻・ミケーネ文明(ミュケナイ文明)の衰亡が含まれる。
この変化を「青銅器時代の崩壊(Bronze Age collapse)」とも呼び、地中海や西アジアは青銅器時代から鉄器時代へ移行する。
モーセの後継者ヨシュアがヨルダン川を渡りカナン地方に侵入。
イェリコの戦いでイェリコを占領、ヤビン率いる反イスラエル同盟を倒しハツォルを聖絶する。
ヨシュアに続くこの時代ヘブライ人の士師デボラ・ギデオン・サムソンらが活躍する。
ヘブライ人は地中海東岸の先住民カナン人、モアブ人、アンモン人、ミデヤン人、ペリシテ人などと抗争を続ける。
中央ヨーロッパは青銅器時代後期(骨壺墓地文化(ウルネンフェルト文化)・ハルシュタット文化A期)。
ハルシュタットでは岩塩が採掘され、中央ヨーロッパ各地に通じる「塩の道」が開発される。
西北インドへ進出してきたアーリヤ人達が定着する。
この地でアーリア人はインド最古の文献である『リグ・ヴェーダ』を編纂し始めた(前期ヴェーダ時代)。
パンジャーブを舞台とした十王戦争でバラタ族・トリツ族がプル族ら十部族の王に勝利する。
遊牧民族の葷粥が周の古公亶父(周の文王の祖父・周の武王の曾祖父)を攻撃。
そのため古公亶父は都の?を去り岐山県と扶風県にまたがる周原(周原遺跡)に本拠地を移す。
北アメリカで先史プエブロ文化が展開。
メソアメリカではオルメカ文化のサン・ロレンソの繁栄続く(サン・ロレンソ相 - 紀元前900年頃)。
アンデス高地ではチャビン・デ・ワンタル遺跡を代表とするチャビン文化が成立する( - 紀元前200年頃)。
紀元前1190年代
紀元前1195年頃 - 地中海東岸の諸都市が「海の民」に破壊される。
これらの都市にはウガリット・カデシュ・アララハ・カトナ・エマル・アシュケロン・ハツォルが含まれる。
紀元前1194年 - トロイア戦争の始まり(伝承に基づくエラトステネスの計算による)。
紀元前1192年頃 - 殷の武丁が死去(紀元前1250年頃 - (夏商周年表プロジェクトによる))。
紀元前1190年頃
ヒッタイト王国の都ハットゥシャが陥落し統治機構は崩壊、同国は滅亡する。
最後のヒッタイト王シュッピルリウマ2世を称えるニシャンタシュ(ドイツ語版)碑文が陥落直前に作られるが、王の記録はこれで途絶える。
カルケミシュやタバル(英語版)ではヒッタイト残存勢力が再編成され(シロ・ヒッタイト国家群(英語版))、リュディア王国もその流れを汲む。
トフマ川流域のメリド(英語版)を中心にルウィ人系のカンマヌ王国が成立、アルスランテぺ(Arslantepe)遺跡がその地に比定されている。
その後アナトリア中央部にはフリギアが進出し、ゴルディオンを中心として栄える。