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出典検索?: "紀元前1世紀"
千年紀:紀元前1千年紀
世紀:前2世紀 - 紀元前1世紀 - 1世紀
十年紀:前90年代 前80年代 前70年代 前60年代 前50年代
前40年代 前30年代 前20年代 前10年代 前0年代
ローマ帝国の成立。紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像はヴァティカン美術館所蔵の「プリマポルタのアウグストゥス」。エジプト女王クレオパトラ7世。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家ジャン・レオン・ジェロームの歴史画で、女王とユリウス・カエサルの出会いの状況を描いている。カエサル暗殺。終身独裁官に就任したカエサルは独裁傾向を強めたとみなされ、共和政の維持を唱えるカッシウスやブルトゥスに暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画「カエサルの死(ウォルターズ美術館蔵)」。ポン・デュ・ガール(ガール橋)。ローマの水道橋を代表する南フランスのこの橋はアウグストゥスの腹心アグリッパによって建設された。ラス・メドゥラス。イベリア半島全域がローマの支配下に組み込まれたのは紀元前19年のこと。以後、鉱産資源の金に恵まれたレオン県ポンフェラーダ近郊のこの地は、ローマ水道の建造技術を応用した特殊な採掘技術「山崩し」により大きく地形が変わった。カプア。南イタリア・カンパニア地方の中心地でローマとはアッピア街道で結ばれ大いに繁栄した。剣闘士奴隷の興業が盛んでスパルタクスを指導者とする第三次奴隷戦争もこの地の剣闘士養成所から奴隷が逃亡したことに端を発する。画像はカプアの円形闘技場の遺跡。ケルト人の消長。カエサルの遠征でアルプス以北のガリアは共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちはラ・テーヌ文化の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表する「グンデストルップの大釜(デンマーク国立博物館蔵)」。ネムルト山墳墓の彫刻群。現在のトルコ東部にあったコンマゲネ王国ではアンティオコス1世により独特な墳墓が営まれた。パルティアの挑戦。パルティア王オロデス2世とその配下のスレナス率いる軽騎兵にクラッスス率いる共和政ローマ軍は殲滅された。画像はエリマイス地方から出土したパルティア人の肖像彫刻(英語版)で紀元前後の尚武の気風に富んだこの時代の貴人の風貌が窺える(イラク国立博物館蔵)。マガダ地方の王権。紀元前2世紀にマウリア朝が崩壊した後のインドでは、シュンガ朝からカーンヴァ朝の王権が続いた。画像はシュンガ朝時代に作られたヤクシャ像(パリ・ギメ美術館蔵)。王昭君。前漢と匈奴の和平のために呼韓邪単于へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の菱田春草の「王昭君図」(東京国立近代美術館寄託)。前漢後期の神仙思想。この時代には様々な民間信仰や讖緯思想が世情を賑わした。時に武帝時代の巫蠱の禍のような事件を引き起こし、長じて王莽の帝位簒奪にもつながる要素を持っていた。画像は台湾故宮博物院所蔵の加彩灰陶器で、表面には雲気紋を伴った龍・鳳凰・饕餮といった神仙のイメージが描かれている。銅鐸の祭祀。荒神谷遺跡と並ぶ古代出雲を代表する加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は島根県立古代出雲歴史博物館での展示の様子。
紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもあり、紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。
なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。
できごと
紀元前100年代詳細は「紀元前100年代」を参照
紀元前100年頃
グアテマラ北部サン・バルトロの下層1号神殿「絵画の神殿(ラス・ピントゥラス)」壁画が描かれる。
これは先古典期後期のもので、マヤ文明の壁画としては現時点で最古のもの。