紀伝道(きでんどう)とは、大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となり、学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と別々の正式名称を用いて、通称として「紀伝博士」「文章道」という呼び方も用いられた(ただし、統合当時には「紀伝道」「文章道」の呼称はまだ成立していなかったとする説もある)。
ただし、実際には通称に過ぎないとされている「文章道」という呼称が、明治以後には混同されて、文章道が紀伝道を吸収して「文章道」「文章博士」となったという誤った解釈がされていた時期もある。
本項目でも統合以後の記述については、本来の記述に従って学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と記述するものとする。 初期の大学寮においては儒学を教える明経道が中心とされ、律令を教える明法道と算術を教える算道が実務的な観点からこれを補う構造であったと考えられている。ただし、秀才・進士を選考する際に文選・爾雅から問題が出されていたことが、『令集解』の内容から判明しており、文学なども教育課程には組み込まれていたものと考えられている。
文章道と紀伝道
文章博士の設置
天平7年(735年)に遣唐使として渡って帰国した吉備真備が唐より中国正史をまとまった形で持ち帰った(吉備大臣三史櫃)のを機に文章博士が歴史をも合わせて講義することになった。中国正史は紀伝体で書かれていたことから、「紀伝」とも呼ばれそれが歴史(学)の代名詞となった。 その後、中国正史の知識が公文書作成や一種の政治学として重んじられたこともあり、歴史を学ぶために文章科(文章道)を希望する者の後が絶たず、本来の文章博士が専門とする文学の講義が滞るようになった。このため、大同3年2月4日(808年3月4日)に再度明経直講より1名を割いて独立した官として紀伝博士(きでんはかせ、正七位下相当)が設置され、その下に学生として紀伝得業生(きでんとくごうしょう)及び紀伝生(きでんのしょう)が置かれたのである。これが通称としての「紀伝道」の成立である(ただし、『皇代記』には延暦24年(805年)6月に「紀伝儒者始」があったと記されており、紀伝博士成立以前に紀伝を担当する専門教員が置かれていた可能性がある)。紀伝道では中国正史や『文選』などの講義が行われていた。ところが、律令政治の変質とともに貴族・官人社会において求められるのは、実務文章の作成能力よりも漢詩などの文学文章の作成能力に移るようになっていった。特に嵯峨天皇は文学を重んじて『凌雲集』・『経国集』・『文華秀麗集』の三勅撰漢詩集が編纂され、漢詩作成のために必要な漢文学教育の基礎を中国正史由来の史学教育に求めた。このため、弘仁12年(821年)には文章博士は相当官位を従五位下に引き上げられた。これは博士の中で筆頭とされた明経博士よりも上位であり、かつ博士中唯一の貴族相当の位階であった。このような情勢の中で、弘仁11年11月15日(820年12月23日)の太政官符では、従来の方針を一転して「良家(公卿)子弟」のみに限定する規定が定められた。これは両科統合後の天長4年(827年)文章博士都腹赤の上奏(『本朝文粋』、ただし腹赤は2年前に没しており、生前に行われたものか)によって撤廃されたものの、貴族子弟の文章生採用が事実上認められたために白丁文章生は貴族文章生によって圧迫を受けるようになり、本来は正規外に中下級身分からの人材登用の役目を担っていた紀伝・文章生が貴族子弟によって独占されて、文章博士以下の世襲が進行するきっかけとなった。また、紀伝道に求められるものも、天皇や公卿からも強い関心を抱かれていた漢詩などの文学の材料としての歴史的知識に移るようになっていった。このため、紀伝道と文章道の違いが次第に曖昧になっていった。承和元年3月8日(834年4月20日)に紀伝道と文章道(「道」の呼称が未だ成立していなかったとする見解を採るならば、紀伝科と文章科)は統合されることとされた。 以後、紀伝博士の定員は文章博士の定員に移され(1名→2名)、紀伝得業生・紀伝生もそれぞれ文章得業生・文章生に吸収されて、学科名は「紀伝道(紀伝科)」・博士の号は「文章博士」が採用され、官制上は廃止された文章道(文章科)・紀伝博士はそれぞれ別称・通称的な存在として残されるようになっていった。これは文章博士が紀伝道成立以前からある官である事と「紀伝」を学ぶために設置された官職であった事実との間でバランスを取った結果とも考えられているが、結果的には他の学科が学科名と博士の称号の合致を見ている(明経道=明経博士、算道=算博士、明法道では当初律学博士という呼称が用いられたものの後に明法博士と改称された)ことから、明治以後に文章道と紀伝道が別々に存在したのが紀伝道が文章道に併合されたという誤った解釈を流布させる原因となった。 だが、実際には『三代実録』には明経・紀伝がしばし併記して記述され、『日本紀略』の応和4年2月25日(964年4月10日)の講日本紀(後述)において大学寮から「紀伝明経道」学生の出席が命じられた経緯が記されており、この出来事ついて触れた『類聚符宣抄』も同様の記載をしている。また、『類聚符宣抄』に収められた安和2年8月11日(969年9月25日)に出された宣旨にも「紀伝道」という語が明記されている。これに対して「文章道」という言葉を用いた例も全く無い訳ではない(『菅家文章 紀伝道の統合期に活躍した文章博士である菅原清公は大学頭を兼務してその発展に貢献し、大学寮の北側に文章院という学舎を設置した。後に菅原氏は清公・是善・道真・淳茂の4代の文章博士を輩出し、文章院は大学直曹(公認寄宿舎)としての地位を得るに至った(これに対抗するために設置されたのが大学別曹と言われている)。教科書としては歴史からは「三史」と呼ばれた『史記』・『漢書』・『後漢書』と文学からは『文選』を中心として、『三国志』・『晋書』・『爾雅』などが用いられていた。また、後に講日本紀(『日本書紀』の講義)に文章博士や紀伝学生(文章生)も関わっている(特に元慶講日本紀を受講して後に「日本書紀私記」をまとめたとされる矢田部名実(擬文章生、後に大内記)などは良く知られている)ことや国史編纂に関与した撰国史所の職員に紀伝学生が加わっていることから、『日本書紀』以下の「六国史」に関する講義も行われていたと考えられている。
紀伝博士の設置と統合
紀伝道の成立と文章博士
統合以後の紀伝道
紀伝道・文章博士における地位の向上