紀伊路
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紀伊路(きいじ、古くは紀路〈きじ〉とも)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。

淀川河口の渡辺津摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社熊野那智大社を結ぶ。

近世までに紀伊田辺以東の部分が中辺路(なかへち)の名で区分されるようになったが(後述)、本項目にて扱う。
概要熊野古道の地図。水色線・黄線が紀伊路

紀伊路は畿内と熊野三山を結ぶ参詣道である。熊野古道の中では、伊勢路と並んで梁塵秘抄に詠われたように最も古くから知られた道であるが、摂津国・和泉国では和泉山脈葛城山脈に、紀伊国では紀伊山地と紀伊山地に源流をもつ河川に制約され、決して容易ではない困難な道であった。

そのような困難な道であるにもかかわらず、紀伊路は7世紀以降、熊野三山への参詣道として正式なルートとして認識され、や貴族による参詣の隆盛を見た。のみならず、こうした院や貴族による参詣を中心とする平安末期から鎌倉初期にかけての中世熊野詣は徒歩が原則とされ、九十九王子への巡拝が行われた。中世熊野詣の先達をつとめ、参詣ルートの整備や参詣儀礼の指導にあたったのは修験者であったため、困難な修行の道を踏み越えて行くことそれ自体に信仰上の意義が見出されていたのである。

中世熊野詣は、承久の乱において主たる担い手であった院が没落し、院の後ろ盾を得つつ熊野三山を統括してきた熊野別当家が勢力を衰えさせたことで終焉を迎えた。以降、熊野参詣の主たる担い手が東国武士や有力農民にシフトするにつれ、メインルートとしての地位を失った紀伊路の性格も変容し、西国三十三所の巡礼道に組み込まれるに至った。熊野参詣は依然として失われたわけではないが、中世熊野詣のような参詣儀礼は失われ、また困難な箇所を回避するための派生ルートが設けられた。摂津や和泉では熊野街道とも呼ばれたように、紀伊路は幹線道路として沿道住人の生活道路であり、政治・経済上の役割をも担っており、近代以降の国道整備においても、紀伊路のルートがしばしば踏襲された。

淀川河口の渡辺津(摂津国)を発った紀伊路は、和泉山脈から派生した和泉丘陵先端部の湧水帯線沿いに紀州街道とほぼ平行して進み、今日の阪南市付近で丘陵越えに方向を転じる。同じく丘陵越えに転じた紀州街道と合流して雄ノ山峠を越えて紀伊国に入る。紀ノ川で中央構造線を南に越えると、そこからは紀伊山地から派生した地形が続き、紀伊山地に源流を持つ紀ノ川有田川日高川といった河川を渡りながら紀伊田辺に着く。田辺からは東進し、岩田川河谷を経て滝尻からは大塔山系北縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を巡拝する道へ進む。

前述の通り、紀伊路は信仰の道であるだけでなく生活の道でもあり、近代以降においても利用され続けた。しかし、より容易かつ自動車の通行が可能なルートが開削されるとともに幹線から外れ、集落の中を通っていた道も旧状を失ったり、道ではなくなった箇所も少なくはない。しかし、1978年昭和53年)に文化庁により大阪府和歌山県の熊野参詣道、すなわち紀伊路が「歴史の道百選」に選定されたことを機に、改めて紀伊路のルートと歴史に関する調査結果が集成された。またこの調査から派生して、旧状をまとまってよくとどめられている田辺市中辺路町以東の紀伊路はルートの復元と整備が行われたことにより、不完全であるにせよかつての参詣道をたどることが可能になっている。
紀伊路の道

紀伊路のルートとその周囲の名所・旧蹟・遺跡等について記述する。
窪津から雄ノ山峠越え

中世熊野詣においての院や貴族たちがたどったルートに従うならば、京都から舟で旧淀川河口まで下って渡辺津付近で上陸するところから参詣道がはじまる[1]。摂津から南下して紀伊の山口に至る道は、平安時代以降は南海道であった。南海道は遷都などの事情により数度にわたってルートが変更されており、奈良時代までは紀ノ川河谷を西進して紀伊国府に至り、淡路阿波とすすむが、中世熊野詣の時代には官道である南海道を利用していた[2]

旧淀川河口付近の上陸地から上町台地を南下し、河内和泉の国境を三国峠で越え、和泉国に入る。和泉国において紀伊路のルートを制約するのは、かつての和泉・紀伊の国境、今日の大阪・和歌山県境をなす和泉山脈と和泉山脈から派生した和泉丘陵である。和泉山脈から北に向かって櫛の歯状に伸びる丘陵は和泉平野を広く覆い、その間を開析する河川はいずれも流域面積の小さな河川ばかりであるが、段丘に深いV字谷を形成している[3]。丘陵末端は海岸線との間に海退または隆起により海岸段丘を形成し、この海岸段丘形成の作用と東から西への地形の圧力により河川は屈折を繰り返しつつ大阪湾に流入するまでの間に、沖積平野扇状地を形成する[4]。そうした丘陵の下部や段丘の末端部には湧水帯が見られ、この湧水帯をつなぐ線は丘陵下湧水帯線と呼ばれる[5]。この線に沿って原初的な交通路が成立し、のちに紀州街道・熊野街道となって、各時代を通じて文化を受け入れる幹線となった[6]。しかし、この交通路は南西に進むにつれて、和泉丘陵が海岸に迫って来るために狭められてゆき、阪南市貝掛付近ではついに丘陵先端が海に落ち込むことになる[4]。それゆえ、交通路は海岸線を通るか、丘陵上に上がるかを選択せざるを得なくなるが、古代後期以降の主要交通路となるのは後者であり、古代以降の熊野街道、近世以降の紀州街道とも丘陵に上がり、現在の泉佐野市下瓦屋町付近で合流し[3]雄ノ山峠を越えてゆくことになる。


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