この項目では、和歌山県を流れる河川について説明しています。流域に位置する同名の自治体については「紀の川市」を、有吉佐和子の小説については「紀ノ川 (小説)」をご覧ください。
紀の川
和歌山市JR阪和線車窓から
水系一級水系 紀の川
種別一級河川
延長135[1] km
平均流量37.4 m³/s
(船戸観測所 2002年)
流域面積1,660[1] km²
水源大台ヶ原(奈良県)[1]
水源の標高1,695 m
河口・合流先紀伊水道(和歌山県)[1]
流域 日本
奈良県・和歌山県
紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流。河川名は「紀伊国」に由来する[2]。
奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれるが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川(きのかわ)」が併記される(例:「よしのがわ(きのかわ)」)。地図や橋の銘板には吉野川と記される。そのほかに「木御川」「紀伊御川」とも呼ばれる[1]。
地理吉野山の周辺
奈良県吉野郡吉野町橋屋で撮影吉野郡大淀町椿橋(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分07.86秒 東経135度48分23.49秒 / 北緯34.3855167度 東経135.8065250度 / 34.3855167; 135.8065250)より東を見る
奈良県と三重県の県境に跨がり全国的にも有数な多雨地帯として知られている大台ヶ原を源流とし、「吉野川」として紀伊山地を北西へと流れる[1][3]。上流域には渓流区間が連続しており、発電所の取水・放水や支流の流入などによって流量の変動が大きい[3]。吉野郡吉野町付近で高見川と合流すると流れを西に変え、和歌山県に入ると名前を「紀の川」に変える[1][3]。橋本市付近からは中央構造線の南側に沿って西へと流れるが、橋本市から紀の川市東部まで付近では河岸段丘を形成する[3][4]。以下河口部まで南北4キロメートルほどの細長い扇状地(三角州)が広がり、和歌山市で紀伊水道に注ぐ[1]。
下流域の紀州大橋付近、和歌山市小豆島と田屋にまたがる地域に「中州」と呼ばれる輪中が形成されている[4]。この輪中堤がいつごろ作られたものかは分かっていないが、江戸時代にはすでにこの地域に10軒弱の農家があり、1889年(明治22年)の紀の川の大洪水では輪中堤によって被害を免れたことが分かっている[4]。なお、1960年(昭和35年)にこの地域で銅鐸が出土している[5]。 日本有数の多雨地帯である大台ヶ原を水源とする紀の川は、夏季(6月?9月)に集中する降雨分布を示す。従って梅雨時期や台風の際には容易に氾濫を繰り返す河川であった。河口の沖積平野である和歌山平野では河道が度々変遷する状況であったが、豊富な水量は慢性的な水不足にあえぐ奈良盆地の人間にとって魅力的であった。 1400年代の地震・津波によって砂丘が破壊されたことにより、紀の川は和歌浦へ注いでいた河道から現在の紀伊水道へ注ぐ河道に変わった。なお、和歌浦へ注いでいた旧河道は和歌川
本流域の自治体
奈良県(吉野川)
吉野郡川上村、吉野郡吉野町、吉野郡大淀町、吉野郡下市町、五條市
和歌山県(紀の川)
橋本市、伊都郡九度山町、伊都郡かつらぎ町、紀の川市※、岩出市、和歌山市※2005年(平成17年)11月7日に和歌山県の那賀郡打田町、粉河町、那賀町、桃山町、貴志川町が合併して成立した「紀の川市」の市名は、この河川が由来となった。
紀の川開発史
秀吉の水攻め秀吉が築いた太田城水攻めにおける堤防の推定位置。紀の川における大規模な土木工事の初見でもある。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成太田城由来并郷士由緒記/個人蔵
太田城を巡る合戦の詳細については紀州征伐#太田城水攻め、太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦いを参照のこと。
中世、紀伊国は山名氏・大内氏・畠山氏などが守護を務めていた。だが高野山や粉河寺、紀三井寺といった寺社勢力が強い地域であり、中央集権的な統治は不可能であった。従って在地豪族は自立性が強く、大勢力に従うことには抵抗を見せた。戦国時代、織田信長は石山本願寺に通じる雑賀衆・太田党や根来寺の討伐を行ったが、それは他の一向一揆に比べて峻烈なものではなく、和睦という形で決着を見た。このため寺社勢力はその影響力を保持したままであった。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて根来寺・雑賀衆・太田党は徳川家康に味方し、羽柴秀吉への敵対姿勢を強めた。このため翌1585年(天正13年)に秀吉は弟の羽柴秀長・甥の羽柴秀次と共に6万の軍勢を率い紀州征伐に乗り出した。根来寺を焼き討ちした羽柴軍は太田党の本拠地・太田城(現・和歌山市太田)への攻撃を開始した。