粟島神社_(米子市)
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粟島神社

所在地鳥取県米子市彦名町1404番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度 / 35.44389; 133.29222 (粟島神社 (米子市))座標: 北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度 / 35.44389; 133.29222 (粟島神社 (米子市))
主祭神少彦名命ほか5柱[1]
社格旧郷社[2]
創建不詳
例祭

春季・4月12日

夏季・旧6月11日

秋季・10月12日[3]

地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}粟島神社
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粟島神社(あわしまじんじゃ)は、鳥取県米子市彦名町にある神社である。淡島神社の一つ。少彦名命を祭神とする。
社誌

度々の火災[注 1]で記録を失っており、創建年は不明[4]

境内は標高36メートル[注 2]の山(明神山[4])になっているが、かつては中海の小島のひとつだった[5]。島(山)全体が神山とされ、古い時代には社殿は山麓にあったとされている[5]

戦国時代尼子氏の伯耆侵攻の際に社殿が焼失し、後に尼子氏が再建し社領を寄進した[2]。そのあと戦国期を通じ、この地方ではしばしば支配勢力が変わったが、時の支配者たちの庇護を受けた[2]

江戸期になると、元禄期(1688年?1704年)に社殿が焼失し、翌年再建されるにあたり、それまでの山麓から山頂へ移された[2]。その後、宝暦期(1751年?1763年)に粟島周辺が干拓され、「彦名干拓地」一帯と地続きになった[5][1]

なお、江戸期には「粟島大明神」として祀られており、明治維新の際に、境内の諸社を合祀して粟島神社に改名した[2][4]明神神仏分離令を参照。)。また、明治元年には西園寺公望が参詣した。その後、神社の整理統合が行われる中、大正時代に近隣の北野神社(後藤地区)・余戸神社(下粟島地区)を合併した[2][4]

1936年(昭和11年)には社殿が再築され、現在に至る[3]

境内の大灯籠

187段の石段前の狛犬

山頂にある拝殿

現地案内板「粟嶋神社」

伝承
由緒

733年天平5年)の『伯耆国風土記』(逸文)[1][注 3]では、こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地でを蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている[2]。(つまり、粟島は少彦名命の現世での最後の地、ということになる[2]。)

『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされている[2]

民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける[6]
米子の由来

粟嶋の分限者には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられている[5]
八百比丘尼

地元の漁師の娘が、それと知らずに人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまった。娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟「静の岩屋」で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかった。娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれた[5]
公共財
粟嶋神社社叢

干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体にスダジイなど高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成している[5][7]。島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してるシャシャンボツツジ科)が大型化しているのも特徴的で、全体が「粟嶋神社社叢」として鳥取県天然記念物の指定を受けている[5][7][1]
粟嶋秋月

文政期に福島林仙という米子の文人が、「米子八景」と称する一連の和歌を詠んだ[8]。このなかで粟嶋は次のように詠まれている。うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして 月ぞすみける ? 福島林仙、米子八景[5]

大正期になると、米子八景をもとに「錦海八景[注 4]」が定められた。粟嶋からの中海の水面に映る秋の月夜は「粟嶋秋月」と呼ばれる名景で、粟嶋全体は米子市の名勝に指定されている[5]
注釈^ 少なくとも3回、永平年間(1504年?1521年)、元禄2年(1689年)、大正11年(1922年)の火災が記録に残されている[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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