米長邦雄 永世棋聖
名前米長邦雄
生年月日1943年6月10日
没年月日 (2012-12-18) 2012年12月18日(69歳没)[1]
プロ入り年月日1963年4月1日(19歳)
引退年月日2003年12月18日(60歳)
棋士番号85
出身地山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)
所属日本将棋連盟(関東)
師匠佐瀬勇次名誉九段
弟子先崎学・中川大輔・伊藤能・長岡裕也・高崎一生・中村太地・杉本和陽・林葉直子
永世称号永世棋聖
段位九段
棋士DB米長邦雄
戦績
タイトル獲得合計19期
一般棋戦優勝回数16回
竜王戦最高クラス1組(12期)
順位戦最高クラスA級(26期[2])
2017年3月5日現在
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米長 邦雄(よねなが くにお、1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日[1])は、将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代7位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)[3]。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。
2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)[4]。
北陸先端科学技術大学院大学特任教授[5][6](2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日[7])。日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)[8]。財団法人JKA評議員(本来の任期満了予定日は2013年(平成25年)3月31日[9]であったが、死去により死去日をもって自動的に退任した)。日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。 肩書、タイトルはいずれも当時。 山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。増穂村の米長家は元々地主の家系であったが、第二次世界大戦後の農地解放により土地を失った。「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。」と次兄の修が語っている[10]。当時たばこ屋を営んでいた米長家の生活は、父親が肺結核を患っていたこともあって非常に困窮しており、当初は子供たちは全員高校進学せずに奉公に出す方針だった[11]。 小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる[12]。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという[12]。「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。」とは次兄の修の談[10]。こうして米長は佐瀬の元で修行するために、東京へ転居することとなった。 北区立十条中学校[13]、東京都立鷺宮高等学校を経て、中央大学経済学部に入学するも、4年次3月(年度末)退学。
経歴
プロ入り前