米長邦雄
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2022年10月)

 米長邦雄 永世棋聖
名前米長邦雄
生年月日1943年6月10日
没年月日 (2012-12-18) 2012年12月18日(69歳没)[1]
プロ入り年月日1963年4月1日(19歳)
引退年月日2003年12月18日(60歳)
棋士番号85
出身地山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町
所属日本将棋連盟(関東)
師匠佐瀬勇次名誉九段
弟子先崎学中川大輔伊藤能長岡裕也高崎一生中村太地杉本和陽林葉直子
永世称号永世棋聖
段位九段
棋士DB米長邦雄
戦績
タイトル獲得合計19期
一般棋戦優勝回数16回
竜王戦最高クラス1組(12期)
順位戦最高クラスA級(26期[2]

2017年3月5日現在
テンプレートを表示

米長 邦雄(よねなが くにお、1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日[1])は、将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代7位永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)[3]。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。

2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)[4]

北陸先端科学技術大学院大学特任教授[5][6](2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日[7])。日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)[8]。財団法人JKA評議員(本来の任期満了予定日は2013年(平成25年)3月31日[9]であったが、死去により死去日をもって自動的に退任した)。日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。
経歴

肩書、タイトルはいずれも当時。
プロ入り前

山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。増穂村の米長家は元々地主の家系であったが、第二次世界大戦後の農地解放により土地を失った。「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。」と次兄の修が語っている[10]。当時たばこ屋を営んでいた米長家の生活は、父親が肺結核を患っていたこともあって非常に困窮しており、当初は子供たちは全員高校進学せずに奉公に出す方針だった[11]

小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる[12]。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという[12]。「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。」とは次兄の修の談[10]。こうして米長は佐瀬の元で修行するために、東京へ転居することとなった。

北区立十条中学校[13]東京都立鷺宮高等学校を経て、中央大学経済学部に入学するも、4年次3月(年度末)退学。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:304 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef