米英戦争
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米英戦争

首都ワシントンの焼き討ち(1814年8月24日)

1812年 6月18日 ? 1815年 2月18日
場所北アメリカ東部および中部、メキシコ湾岸、大西洋および太平洋
結果イギリス優勢で進むも、ガン条約により元の状態に戻る

衝突した勢力

アメリカ合衆国インディアン諸部族

チョクトー族

クリーク族

チェロキー族

セネカ族 (en) 

イギリス

ザ・カナダス

アッパー・カナダ

ローワー・カナダ


バミューダ諸島
インディアン諸部族

テムカセ連合 (en) 

ショーニー族

クリーク族(赤い棒 (en) )

オジブワ族

フォックス族 (en) 

イロコイ族

マイアミ族

ミンゴ族 (en) 

オタワ族

キカプー族

レナペ族

マスコウテン族 (en) 

ポタワトミ族

ソーク族

ワイアンドット族

ペンサコーラの戦い (1814年) (en) にて
スペイン帝国

スペイン領フロリダ

指揮官
ジェームズ・マディソン
ヘンリー・ディアボーン
ジャコブ・ブラウン
ウィンフィールド・スコット
アンドリュー・ジャクソン ジョージ・プレボスト
アイザック・ブロック 
戦力
?アメリカ合衆国正規軍: 35,800
?レンジャーズ: 3,049
?民兵: 458,463*
?アメリカ海軍および海兵隊: (開戦時):
?フリゲート:6
?その他艦船: 14
?インディアン: 不明?イギリス植民地軍正規兵: 48,163
?民兵: 4,000
?イギリス海軍および海兵隊: (開戦時):
?戦列艦: 11
?フリゲート: 34
?その他艦船: 52
?カナダ植民地海兵隊: 実数不明
?インディアン: 3,500
被害者数
戦死: 2,260
負傷: 4,505
罹患他: 17,205
市民: およそ 500戦死または負傷: 5,279
罹患: 3321


ほとんどの民兵は戦闘に参加せず、故郷を離れなかった者すらいた。

米英戦争(べいえいせんそう)は、1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族とアメリカ合衆国との間で行われた戦争。

米英がカナダ、アメリカ東海岸アメリカ南部大西洋エリー湖及びオンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせたため、北米植民地戦争でもあり、インディアン戦争でもある。

「イギリス=アメリカ戦争」「第二次独立戦争」[1]とも呼ばれる。英語では専らWar of 1812(1812年戦争)と表現される。
米英戦争の原因詳細は「米英戦争の原因」を参照

この戦争が起こった背景にはいくつかの理由がある。

1.米英が奪い合おうとした土地が、そもそも古くからインディアンの住む土地であったことである。インディアン諸部族は自らの生存のために米英と闘わなければならなかった。

2. ヨーロッパでのナポレオン戦争中、アメリカ合衆国は中立を宣言するが、イギリスフランスによる海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受けていたので、反英感情が高まっていた。またイギリスのアメリカ船に対する臨検活動も反英感情を強めた。

3. アメリカ国内において、入植白人インディアンの土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まっており、根本的な解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられた。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んだ。

4. ナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうとした。

5. 4.の理由からアメリカの指導者達は戦争がすぐに終わると楽観していた。
戦争の経過

戦争は、アメリカ合衆国が仕掛けて火蓋が切られた。1812年6月18日、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディソン政権の時にアメリカ合衆国議会はイギリスに宣戦布告した。外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。

イギリスはナポレオン戦争に掛かりきりでいた。イギリス陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、イギリス海軍はヨーロッパ海上封鎖を強いられていた。1812年6月のカナダ駐在イギリス軍は公式の数字で6,034名となっており、これにカナダ民兵が支援していた。米英戦争の間、イギリスの陸軍及び植民地担当大臣は第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストであった。開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ総司令官ジョージ・プレボスト中将に防衛的な戦略を採らせた。このことはプレボスト自身の考えでもあった。しかし、1814年になると、戦争経験のある25,000名以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボストのニューヨーク侵攻はプラッツバーグの戦いでの敗北で挫折した。また南部のルイジアナ侵攻もニューオーリンズの戦いで反撃された。

一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていた。マディソン大統領は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていた。1812年、アメリカ陸軍の正規兵は12,000名を切っていた。アメリカ合衆国議会は陸軍兵力を35,000名まで拡張することを認めたが、募兵は志願に頼り、給与が少なくて不人気だった上に、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかった。民兵は正規兵の支援を要請されたが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪かった。合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にあった。これは丁度国立銀行(第一合衆国銀行)を放棄したばかりであったことと、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによっていた。

アメリカの準備の足りなさと、アメリカ合衆国陸軍長官ウィリアム・ユースティスの指導力の不足とで、ユースティスの更迭にまで発展し、戦争初期のアメリカは悲惨な状況だった。ユースティスの後継者ジョン・アームストロング1813年遅くにモントリオール占領を目指した連携戦略を試みたが、兵站の破綻、非協力的で喧嘩っ早い指揮官達および訓練の足りない兵士によって失敗させられた。1814年までにアメリカ合衆国陸軍の士気と指導力は大きく改善されたものの、首都ワシントンD.C.が焼き討ちに遭い、今度はアームストロングが長官職を追われた。次の陸軍長官ジェームズ・モンローが新しい戦略を立てる前に、戦争は終わった。

アメリカの戦争遂行は、特に反戦論の声が大きかったニューイングランドでの不人気が災いする。ニューイングランドが民兵や財政的な援助を提供できなかったことは戦争遂行に深刻な打撃となった。ニューイングランドが合衆国からの脱退を検討するという脅威までもあり、イギリスはこの亀裂を即座に利用して、海上封鎖を南部の港に限定し、密貿易を奨励した。

米英戦争は主に3つの戦線で行われた。
五大湖地方およびカナダ戦線

大西洋戦線

南部諸州戦線

五大湖地方およびカナダ戦線詳細は「米英戦争のカナダ戦線」を参照

アメリカは、英領カナダの奪取を狙い、カナダ領内に侵攻した。米英戦争2年目となる1813年5月にはナイアガラ川河口近くにあったイギリス軍のジョージ砦を攻撃して占領した。エリー湖、オンタリオ湖を抑え、アッパー・カナダの制圧には成功するも、セント・ローレンス川の水運を抑えることはできず、結果モントリオールケベックの攻略は失敗し、ロウアー・カナダの制圧はできなかった。こうしてアメリカのカナダ侵略の野望は潰えた。
大西洋戦線詳細は「米英戦争の大西洋戦線」を参照

大西洋においても海戦が行われていた。アメリカ海軍イギリス海軍に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が対仏大同盟側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューション(同艦は2015年現在も現役である)は、三笠ヴィクトリーと並んで、世界三大艦の1つとして有名である。また私掠船も盛んに活動した。

海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸し、1814年8月にはメリーランド州においてブラーデンスバーグの戦いに勝利し、次いでインディアン戦争をするアメリカは侵略者であるとしてワシントン焼き討ちを行いホワイトハウスを破壊した。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難した。

大統領府のある首都ワシントンD.C.が陥落したのはこの一度のみである。ちなみに戦後、大統領府を改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイトハウスと呼ばれるようになったという有名なエピソードがある。フォートマクヘンリーに海上からロケットを打ち込むイギリス艦: 1814年

またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814年9月13日の「マックヘンリー要塞の戦い」である。アメリカ兵は独立戦争時に作られたメリーランド州ボルチモアマックヘンリー要塞(フォートマクヘンリー)に立てこもって戦った。当時のボルチモアはアメリカ私掠船の根拠地であった。それに対しチェサピーク湾に侵入したイギリス軍は間断ない艦砲射撃とコングリーヴ・ロケット弾による攻撃を加えた。


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