この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "米英戦争"
時1812年 6月18日 ? 1815年 2月18日
場所北アメリカ東部および中部、メキシコ湾岸、大西洋および太平洋
結果イギリス優勢で進むも、ガン条約により元の状態に戻る。
衝突した勢力
アメリカ合衆国インディアン諸部族
チョクトー族
クリーク族
チェロキー族
セネカ族 (en)
イギリス
ザ・カナダス
アッパー・カナダ
ローワー・カナダ
バミューダ諸島
インディアン諸部族
テムカセ連合 (en)
ショーニー族
クリーク族(赤い棒 (en) )
オジブワ族
フォックス族 (en)
イロコイ族
マイアミ族
ミンゴ族 (en)
オタワ族
キカプー族
レナペ族
マスコウテン族 (en)
ポタワトミ族
ソーク族
ワイアンドット族
ペンサコーラの戦い (1814年) (en) にて
スペイン帝国
スペイン領フロリダ
指揮官
ジェームズ・マディソン
ヘンリー・ディアボーン
ジャコブ・ブラウン
ウィンフィールド・スコット
アンドリュー・ジャクソン ジョージ・プレボスト
アイザック・ブロック †
戦力
?アメリカ合衆国正規軍: 35,800
?レンジャーズ: 3,049
?民兵: 458,463*
?アメリカ海軍および海兵隊: (開戦時):
?フリゲート:6
?その他艦船: 14
?インディアン: 不明?イギリス植民地軍正規兵: 48,163
?民兵: 4,000
?イギリス海軍および海兵隊: (開戦時):
?戦列艦: 11
?フリゲート: 34
?その他艦船: 52
?カナダ植民地海兵隊: 実数不明
?インディアン: 3,500
被害者数
戦死: 2,260
負傷: 4,505
罹患他: 17,205
市民: およそ 500戦死または負傷: 5,279
罹患: 3321
ほとんどの民兵は戦闘に参加せず、故郷を離れなかった者すらいた。
米英戦争(べいえいせんそう)は、1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族とアメリカ合衆国との間で行われた戦争。
米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖及びオンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせたため、北米植民地戦争でもあり、インディアン戦争でもある。
「イギリス=アメリカ戦争」「第二次独立戦争」[1]とも呼ばれる。英語では専らWar of 1812(1812年戦争)と表現される。
米英戦争の原因詳細は「米英戦争の原因」を参照
この戦争が起こった背景にはいくつかの理由がある。
1.米英が奪い合おうとした土地が、そもそも古くからインディアンの住む土地であったことである。インディアン諸部族は自らの生存のために米英と闘わなければならなかった。
2. ヨーロッパでのナポレオン戦争中、アメリカ合衆国は中立を宣言するが、イギリス、フランスによる海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受けていたので、反英感情が高まっていた。またイギリスのアメリカ船に対する臨検活動も反英感情を強めた。
3. アメリカ国内において、入植白人はインディアンの土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まっており、根本的な解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられた。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んだ。
4. ナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうとした。
5. 4.の理由からアメリカの指導者達は戦争がすぐに終わると楽観していた。 戦争は、アメリカ合衆国が仕掛けて火蓋が切られた。1812年6月18日、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディソン政権の時にアメリカ合衆国議会はイギリスに宣戦布告した。外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。 イギリスはナポレオン戦争に掛かりきりでいた。イギリス陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、イギリス海軍はヨーロッパの海上封鎖を強いられていた。
戦争の経過