米良美一
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米良 美一
出生名米良 美一
生誕 (1971-05-21)
1971年5月21日(52歳)
出身地 日本宮崎県西都市
学歴洗足学園音楽大学音楽学部卒業
アムステルダム音楽院オランダ政府給費留学
ジャンルクラシック音楽
職業声楽家
担当楽器カウンターテナー
活動期間1994年10月 -
レーベルBIS(クラシック)
キングレコード(クラシック・日本歌曲等)
事務所

Ia-mela(コンサート・ イベント・講演会)以下業務提携として、COCOJAPAN(テレビ・映画)、元気talk(講演)、鍛冶企画室(ラジオ)
公式サイト

オフィシャルwebサイトhttps://lamela.lsv.jp

米良美一のメラメラブログ https://ameblo.jp/mera0521

Instagramhttps://instagram.com/la_melamela/

Twitterhttps://twitter.com/Lamela_05Facebook https://m.facebook.com/100086655914878/
美輪明宏松田聖子
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米良 美一(めら よしかず、1971年5月21日 - )は、日本声楽家歌手

スタジオジブリの劇場アニメ映画『もののけ姫』のテーマ曲に抜擢され、同作の知名度もあって、その類まれな歌唱力から世界的に知られるようになった。
人物

宮崎県西都市出身。2万人にひとり程度の割合で発症する難病、先天性骨形成不全症を持ち生まれる[1]身長138.7cm[2][注釈 1]洗足学園音楽大学音楽学部卒業後、アムステルダム音楽院にオランダ政府給費留学している。世界的にも評価されているカウンターテナー歌手として知られる。

日本韓国ヨーロッパで活動を展開、世界的なオペラ歌手のエディタ・グルベローヴァハンガリー国立歌劇場でのデュオコンサートの他、スイスドイツ等で共演)、ヨッヘン・コヴァルスキ(世界的に著名なドイツのカウンターテナー歌手)との共演も行った。著名オーケストラとの共演も多い。テレビ・ラジオなどへの出演、各種イベントへの参加も精力的に行う。音楽作品は、CDとしてスウェーデンのBISレーベル(バッハ・コレギウム・ジャパンとの共演含む)、日本ではキングレコードより発売している

1997年、映画『もののけ姫』の主題歌を歌ったことで大衆的人気を獲得。その当時は真面目な好青年のイメージで売り出したが、2012年以降はひょうきんな言動をするオネエ系のバラエティタレントとして活躍[3]
略歴
生い立ち

1971年、宮崎県西都市に生まれる。先天性骨形成不全症を患っていたため、幼いころから骨折を繰り返していたが3、4歳の頃には演歌や民謡を覚え、人前で披露しては喜ばれていた。その快感が原動力となって今に至る[1]

1978年より、地元の西都市立三財小学校に通う。子供の頃から歌が好きであったが、身長が伸びず、両腕も伸ばせない症状があった。生まれつきの難病のため、支援学校小学部へ6歳から入学。親元を離れ全寮制の寄宿舎や小児病棟に入り生活。6歳からの数年間は宮崎市赤江まつばら支援学校に籍を置いて寄宿舎生活を送り、小学4年生の一学期終了まで在学した。

寄宿舎での生活は「寂しさを紛らわす為か、風呂場で詩吟を吟じた事があって、とても上手かった。」と当時の寮母長は回顧している。寄宿舎内に現存するオルガンを弾く事を勧められたことが、後の米良自身の歌の表現力の基礎になった。体調不良により床に臥す日々が続く時は、カセットテープに録音されていた歌謡曲を聴いて過ごし、音楽に親しんだ。

入院していた病院の若い看護師からプレゼントされたカセットテープに録音されたアイドル歌手・松田聖子の大ファンになり、同じ高さで歌いたくて裏声を出して一緒に歌う練習をしたことが、米良のカウンターテナーの原点となった。

特別裕福な家庭ではなく、両親は米良の入退費用がかさむため、肉体労働をして働き育てた。男性に混じって働く母の姿をからかう友人もいて、このことが米良にとってつらく感じられた[1]
学生時代

1984年より、中学時代も支援学校で学んだ。アイドルの歌など、これまで聞く事がなかったジャンルの歌に接することで刺激を受けて数年間を過ごす。15歳までに約30回の骨折を繰り返した[4]

1987年より高校に通い、将来の進路について、音楽を人生の支えとすることを決意し、音楽大学進学を志す。父親は消極的だったが母親は賛同、応援する姿勢を示してくれた。経済的余裕のない中で音楽大学に通う資金援助を受けることとなった。また、支援学校の音楽教諭の協力と指導のもとに周囲からは無謀と言われたプログラムに熱心に取り組む。

1990年より、神奈川県洗足学園音楽大学音楽学部声楽専攻にトップの成績で入学。在学中、テナーから女声の音域を歌うカウンターテナー(裏声を使っていることが特徴)に転向する。
大学卒業後、メジャーデビュー
1994年
大学を首席で卒業。5月、第8回古楽コンクールin山梨で最高位(1位なし2位)を獲得。
バッハ・コレギウム・ジャパンにソリストとして参加。
1995年
奏楽堂日本歌曲コンクール3位入賞。宇田川貞夫によるセシルレコードより自主制作デビュー盤『Lamento d' Arianna アリアンナの嘆き』を発売。
1996年
キングレコードから発売されたメジャーデビューCD『母の唄』がベストセラーになり、アニメーション監督・宮崎駿がラジオで放送された米良の楽曲を聴いて感銘を受ける。
「もののけ姫」で一躍注目
1997年
宮崎駿が監督するアニメーション映画『
もののけ姫』(スタジオ・ジブリ徳間書店)のテーマ曲歌唱に起用され、映画のヒットとともに米良の声種であるカウンターテナーが日本で一般に知られるきっかけとなった。10月5日に出張ゲイボーイ暴行を働き、警察官が出動する騒ぎとなる。後に示談金302,000円で解決。刑事事件とはならなかったが、イメージダウンは避けられず、一時謹慎する[5][3]
1998年
日本ゴールドディスク大賞のベスト・クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー、第21回日本アカデミー賞協会特別賞として初の主題歌賞を受賞する。長野パラリンピック開会式で、ジュリオ・カッチーニの『アヴェ・マリア』を歌う。この頃、映画主題歌のヒットで注目される反面、歌を正当に評価してもらいたいために、小柄な体格を庇うため特注の高いヒールの靴を履いたり、病気や自身の出自を伏せたりした。自身の容姿や生い立ちに対する劣等感から、精神的な重圧により次第に美声が出なくなった。
1999年
ポピュラーソングとして初のオリジナルアルバム『I'll be there』を発表する。
2000年代
2003年
テレビ番組で
美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄」を聴き、米良の治療費を稼ぐために工事現場で働いていた母親に対する米良自身の幼い頃の心情そのものだと感じ、この歌を持ち歌にするようになる。


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