米沢藩
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戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。

米沢藩(よねざわはん)は、出羽国明治維新以降の羽前国置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた。藩庁は米沢城米沢市)。藩主は外様大名上杉氏石高は当初30万石で国主大名だったが、1664年に15万石に減封される。幕末に一時的に18万7千石に加増されるも戊辰戦争後に14万7千石に減封となり、支藩を併合して廃藩置県を迎えた。
前史伊達政宗

米沢は戦国時代天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。当時の伊達家は第14代伊達稙宗と嫡子の晴宗による内紛(天文の乱)が起こっており、その内紛に勝利した晴宗は伊達家第15代となり米沢に本拠を移した。しかし晴宗と嫡子の輝宗も内紛を起こし、輝宗が勝利して第16代となるも、伊達家はそのために勢力拡大が大幅に遅れていた。

天正12年(1584年)10月、輝宗は隠居して嫡子の政宗が第17代当主となる[1]。政宗は相馬家二本松畠山家蘆名家など奥州南部の諸氏を攻めて勢力を拡大。天正17年(1589年)6月に摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし[2]、以後政宗は蘆名家の本拠であった黒川城を本拠とした。さらに二階堂家[3]石川家岩城家[4]を滅ぼした政宗は奥羽66郡の内、およそ半ばを支配する[5]奥羽の覇者となった。

しかし天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従した。このため伊達家の存続は許されたが、秀吉の奥州仕置により会津郡安積郡岩瀬郡など3郡は秀吉の発令していた奥羽両国惣無事令違反であるとして没収され[6]、政宗は再び本拠を米沢に移した[7]。だが秀吉は奥州仕置に際して厳しい検地を命じたため[8]、10月初旬に奥州仕置で改易された大崎家葛西家の旧領で一揆を起こした[9]。この一揆は会津の新領主となった蒲生氏郷と政宗によって鎮定されたが、一揆の扇動に政宗があり、また氏郷暗殺の謀略があったとして秀吉は天正19年(1591年)秋に政宗から故地米沢をはじめ、伊達郡信夫郡などを没収して大崎・葛西の旧領を与えた[10]。これにより伊達家の領地はさらに減少し、年貢収入に至っては従来の半分ほどになった[10]。政宗は岩手沢城を新たな居城と定めて岩出山と改名した[10]

政宗が移封された後、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた[11]。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去[12][13]。嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐ[14]。しかし東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍い[14]があって18万石に減封された[15][16]

蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝であった[17]。領地は蒲生旧領と出羽庄内に東蒲原[18]佐渡を加えた120万石であり[19]、これは徳川家康毛利輝元(輝元の朱印高は112万石[20])含む毛利一族(小早川秀包、安国寺恵瓊など、九州と四国に輝元とは別に領地をもつ)に次ぐ第3位の石高であった[12]。景勝は家老直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達政宗及び山形最上義光に対する抑えとした。ただし直江自身の所領は6万石だったといわれ[12]、直江は上杉家全体を執政する立場にあったことから米沢には城代を派遣し、自らは本拠の若松城で景勝を補佐した[12]

慶長3年(1598年)8月に秀吉が[12]、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると[21]、徳川家康の勢力は豊臣政権内において抜きん出た立場になり、家康は政宗をはじめとする諸大名との無断婚姻を繰り返した。家康に対抗しようと五奉行石田三成は直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると[21]、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た[22]。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した[23][21]。しかしこの軍備増強は、越後の堀秀治[21]や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した[23][21]

神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた[24]。7月24日、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は[25][24]、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した[26]。直江兼続は家康を追撃しようとしたが[25]、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した[26]


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