米沢城
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山形県
米沢城の堀
別名舞鶴城、松ヶ岬城
城郭構造輪郭式平城
天守構造御三階櫓2基(層塔型3重3階)
築城主長井時広
築城年暦仁元年(1238年
主な改修者伊達晴宗蒲生郷安上杉景勝
主な城主長井氏、伊達氏、蒲生氏
上杉氏
廃城年1871年
遺構土塁、堀、石垣
指定文化財なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度54分34.62秒 東経140度6分18.52秒 / 北緯37.9096167度 東経140.1051444度 / 37.9096167; 140.1051444
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米沢城の航空写真
(1976年撮影・国土航空写真)

米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての日本の城平山城)。長井氏および伊達氏の本拠地であり、江戸時代米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていた。2017年には続日本100名城に選定された。
概要

城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である[1]。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏による築城(大改修)当時は30万石の大名の居城であって、石垣は少なく、土塁を多用し、天守は構えられず、本丸に東北隅と西北隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用(御三階)としていた。他に二層櫓が複数あり。

現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)がある。

また米沢図書館には享保10年(1725年)と文化8年(1811年)の米沢城城下絵図が所蔵されている。
歴史・沿革
鎌倉時代

米沢城が最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)と伝えられる。鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定されているが、これを実証する史料や遺構は確認されていない[1]。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗った。以後、長井氏の支配が150年近く続いた。
室町時代

8代広房室町時代初期(天授6年(1380年)、応永9年(1403年)、応永20年(1413年)などの説がある。)に、伊達宗遠に侵略されこの地を追われた。以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。天文17年(1548年伊達稙宗・晴宗父子の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を桑折西山城より米沢城に移した[2]。晴宗から輝宗政宗と当主が変わっても本拠地として使用された。米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられる[1]
戦国・桃山時代

天正17年(1589年)政宗は蘆名義広を破り、蘆名氏を滅亡させると黒川城(114万石)に本拠を移し、晴宗の弟にあたる宗澄ついで宗清を城代に据えた。しかし、豊臣秀吉はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢(72万石)に戻すことになる。天正19年(1591年)政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城(58万石)に移った。

置賜郡は伊達氏に代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主(7万石、蒲生家中で最大)となった[3]。郷安はこの時、城の改修を行っている。文禄年中に白子神社が米沢城鎮守となる。慶長2年(1597年)氏郷の子、秀行下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・直江兼続(6万石、与力を含め30万石とも)を置いた[3]
江戸時代前期

慶長5年(1600年)秀吉の死後、豊臣氏への恩義から徳川家康の専横を「直江状」という文書によって弾劾し徳川氏への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で石田三成挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は直江兼続を総大将として米沢城より北上し東軍最上氏を攻める。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は置賜地方陸奥国伊達郡信夫郡30万石(実高51万石)に減封され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の福島城梁川城には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となった[3]

慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である[1]

寛文4年(1664年)3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、綱憲末期養子として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。
江戸時代中後期

9代治憲(鷹山)は、藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である餐霞館は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。次代の上杉治広も蘭学医術など学問を奨励するなど、文化7年(1810年)に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」等として表彰。続く上杉斉定天保7年(1836年)に表彰されている[4]

上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり[5]、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたる。
幕末から明治

戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わり、同盟を主導した件で4万石を減封。


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