米村でんじろう
[Wikipedia|▼Menu]

よねむら でんじろう
米村 でんじろう
アスタナ国際博覧会日本館サポーター就任に際して公表された肖像写真
生誕戸谷 傳治郎[1]
(1955-02-15) 1955年2月15日(69歳)
千葉県市原郡加茂村(現:市原市[1]
国籍 日本
出身校東京学芸大学
職業都立高校教諭、サイエンスプロデューサー[2]
受賞科学技術庁長官賞(1996年、1998年)[1]
テンプレートを表示

でんじろう先生
YouTube
チャンネル

でんじろう先生[公式]

活動期間2011年3月4日 -
ジャンル実験
登録者数約18万人
総再生回数約3349万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年9月23日時点。
テンプレートを表示

米村 でんじろう(よねむら でんじろう、1955年昭和30年〉2月15日 - )は、日本サイエンスプロデューサー。別名、米村 傳治郎、米村 伝治郎(読み同じ)[2]。サイエンスショーの企画、演出、書籍の監修、テレビ番組の出演や監修、実験装置の開発などを手がける。元都立高校の物理教師
来歴
生い立ち

千葉県市原郡加茂村(現:市原市)に、4人兄弟の末っ子として生まれる[1]。家は兼業農家であった[1]

1973年、千葉県立市原高等学校を卒業する[1]。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した[3]。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた[4]。また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた[4]。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった[3]。牛乳配達のアルバイトをしながら[4]、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した[1]。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした[3]。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた[3]。でんじろうは、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している[3]

「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院(理科教育専攻)に進学した[3]。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る[注釈 1]。卒業後は研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ[1]。教授の紹介で、自由学園の講師を務める[1]。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」(後述)を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ[1]
都立高校教師時代

自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した[1]。1985年度(昭和60年度)より、東京都立稲城高等学校に理科教師(物理)として赴任した[5][注釈 2]

稲城高校は、でんじろうによると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった[1]。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている[6]。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」(後述)の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った[7]。このころ、Mr.マリックがテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒がでんじろうに「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった[8]。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った[8]

この時期、東京学芸大学大学院の先輩で、当時、国際基督教大学高等学校で物理教師をしていた滝川洋二も、学校教育での「理科離れ」の状況に危機感を持っていた。滝川は理科離れを食い止めるためには実験による授業が重要であると考え、1986年1月に「物理教育実践検討サークル」を立ち上げた。後にサークルは「ガリレオ工房」と改称することになる。このサークルに、滝川は大学院時代の後輩であるでんじろうを誘った[9]。滝川によると、でんじろうはガリレオ工房の定例会に毎回新しく開発した実験を持ち込み披露していた[10]。一時期は毎月1時間程度のでんじろう講座が続くような情況であったという[10]

1993年4月より東京都立小金井北高等学校に赴任した[1]。でんじろうの回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という[1]。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef