米川英之
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生誕 (1964-03-03)
1964年3月3日(60歳)
出身地 日本東京都杉並区
ジャンル.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

ロック

フュージョン

AOR

職業

ギタリスト

ボーカリスト

作曲家

編曲家

担当楽器ギターボーカル
活動期間1984年 - 現在
レーベルポリドール(1989年 - 1993年)
バップ(1993年 - 1996年)
ASレコード(2000年)
A-String(2001年 - 2011年)
Reef Studio(2012年 -)
共同作業者

C-C-B

AJ-米田渡-

N/Y Funk shot!!

BLUFF

矢沢永吉

公式サイト

現在:
Buddy-Net 米川英之公式サイト
Hideyuki Yonekawa Facebook(2023年2月20日 - )
旧:
米川英之Facebook(2023年1月17日 - 2月18日)
Hideyuki Yonekawa Facebook( - 2023年1月10日)
著名使用楽器
FERNANDES STC-170Y
TOTO

米川 英之(よねかわ ひでゆき、1964年3月3日 - )は日本のギタリスト、ボーカリスト、ソングライター。1984年、C-C-Bのギタリストとしてデビュー。C-C-Bが解散した翌年の1990年からソロ活動を開始した。東京都杉並区出身。
概要

ソロ活動と並行して、BLUFFをはじめとするバンドや名うてのミュージシャンとのセッションユニットに多数参加。『独奏会』と銘打った単独での弾き語りライブも行っている(ギターだけに及ばず、時にキーボードやピアノを演奏することもある)。首都圏を中心にライブ活動の他、客演、スタジオミュージシャンとしても積極的に活動している。

C-C-Bのメンバーとの交流も続いており、度々ユニットを組んでライブを行っていた。2011年には渡辺英樹田口智治とC-C-Bの楽曲をセルフカバーするユニット『AJ-米田渡-』を結成し、年に数回ライブを行った[注釈 1]。渡辺が死去した2015年以降は笠浩二と2人で活動する機会が増え、C-C-B名義でイベントやテレビ番組の収録にも参加した(2022年に笠が逝去するまで)[注釈 2]

2015年4月に矢沢永吉が行ったインターネットライブ「EIKICHI YAZAWA『MANIAC NIGHT』」にギタリストとして参加。以降、矢沢のライブやテレビ出演の際にバンドメンバーとして数多く参加している[1]
来歴

中学時代から
ロックAORに強く惹かれ、ギターを始める[2]。しかし、同級生と組んだバンドではベースを担当していた。当初は主に洋楽のコピーをしていた。

高校時代に念願であった自分の初めてのギター、フェルナンデス・ストラトタイプを購入(改造を加えて愛用していた。現在弾く機会は殆んどなくなったが原点となったそのギターを大切に所有している)。これを機に更にギターに夢中になり、のめり込んでいく。当時はハードロックヘヴィメタルのギターに傾倒していたという。特にTOTOのギタリスト、スティーヴ・ルカサーに憧れ、強く影響を受けた。しかし、特定のジャンル・邦楽・洋楽に捕らわれることなく様々な音楽を聴いていた。初めて購入したLPレコードオリビア・ニュートン=ジョンのアルバム「Don't Stop Believin」。グレッグ・マティソン・プロジェクトのアルバム「The Baked Potato Super Live!」は特に衝撃を受けた1枚であると語る[3][4]。それらのアルバムは現在も大切に保管している。

文化祭などでバンドを組んで演奏を披露することはあったが、特定のバンドに所属することはなかった。

1982年、東京都立豊多摩高等学校卒業後、武蔵野音楽学院に入学。また、小林克己が講師を務めるビクター・プロフェッショナル・ギター・スクールにも籍を置き、2年課程のカリキュラムを約1年で修得[5]

1984年、ギタースクールでの優秀な実績を買われスカウトを受ける。同年、C-C-B[6]に加入。プロとしてスタートを切ったが、レコード店でアルバイトを続けながらの生活が暫く続いた。

1985年、『Romanticが止まらない』のヒットで一躍ブレイク。生活が激変するほど多忙な日々に突入する。

1989年10月9日、C-C-B解散(C-C-B時代の活動実績はC-C-B項参照)。

1990年、ソロ活動を本格化させる。7月25日にシングル、8月29日にアルバムをリリース。東京厚生年金会館を皮切りに全国13ヵ所で初のソロコンサートツアー『Sweet Voyage Tour』を行う。同年12月3日、NACK5MIDNIGHT ROCK CITY PART1」月曜日スペシャルパーソナリティとして特別番組を放送。
渡辺・田口・米川の3人の総合ファンクラブ「ヨネタワタルクラブ」発足[7]

1993年、バップレコードに移籍。シングル2作目『同窓会』は、同名のテレビドラマNTV同窓会」イメージソング(作詞・井沢満)に起用され、ドラマの挿入歌としても使用された。同楽曲の元曲は以前よりライブで演奏されていた『想い出にかわる季節』(作詞・加藤健)である(なお、本来の「想い出に変わる季節」は2000年にリリースした4枚目のアルバム『INTO THE LIGHT』に収録された)。

同年、米川単独のファンクラブ『Buddy』発足。「Buddy」の命名は米川の趣味のひとつであったスキューバダイビングの用語、「バディシステム (buddy system)」(信頼する仲間・パートナーなどの意味をもつ)から。国内・海外への旅行やファンクラブの集い、限定ライブなども数多く行われた。この頃よりホールコンサートの他、ライブハウスでの活動も活発になる。

1996年、バップレコードより離脱。

1997年、他のアーティスト等への楽曲提供、編曲及び、CM音楽制作、各種サウンドトラック制作への参加などの活動を積極的に行う。

1998年、セッションライブJam For Joy初参加。以降、積極的にセッションライブに参加する。

1999年、公式サイト『Buddy Net』開設。

2000年、4枚目のアルバム『INTO THE LIGHT』を発売。

同年、ミュージカル『GIRL's TIME -女の子よ、大志を抱け!-』(宮本亜門総合演出)の音楽アレンジ・演出を担当。

2001年、「N/Y Funk shot!!」結成(2007年以降、活動凍結)。

2004年、渡辺英樹田口智治と共に「ヨネタワタル」として青山円形劇場にてライブを開催。追加公演も行われた。

2005年、NHKの公開番組「思い出のメロディー」にC-C-Bの元メンバーとして参加。今回のためだけの編曲も手掛ける。ハードロック・テイストなアレンジを施したライブ仕様の『Romanticが止まらない』を披露した。

同年、渡辺英樹との二人ユニット「WY(ヨネトワタル)」を結成。4曲入りのオリジナルミニアルバム『So Sad』をリリース。

2007年、「Brass Rock of Fame」(後のBLUFF)立ち上げライブに参加。

2008年、自身初となるアコースティックライブを東京・青山と神戸にて開催。

2009年、自身のリーダーセッション「HY Jam」を始動。

2010年、デビュー25周年記念となるライブDVD『Turning Point』を発売。

2011年、「ヨネタワタル」にファンキー末吉をサポートミュージシャンに迎え、『AJ-米田渡-』名義のバンドを結成(C-C-B時代にメンバーが作った楽曲を主にセットリストに組んだライブを基盤とする主旨を掲げている。同バンドは米川がメンバーに主旨を提案して結成したこともあり、リーダーを担っている)。

2011年7月、神戸CHICKEN GEORGE ・名古屋BOTTOM LINE渋谷DUO MUSIC EXCHANGEにて『AJ-米田渡-』としての初ライブツアーを行った。同年10月27日には『田口智治Birthday Live「田口★祭」』と冠したライブを Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASUREにて行った。

2012年2月1日、『AJ-米田渡- Presents渡辺英樹 BirthdayEvent「30周年リサイタル」』を新宿BLAZEにて、同年10月27日、『田口智治Birthday Live「田口★祭2」』をMt.RAINIER HALLにて開催。

2013年2月1日から同年3月3日まで『AJ-米田渡- TOUR 2013 「Let's Go Climax」』と銘打ったライブツアーを行った(※「AJ-米田渡-」の活動については「AJ-米田渡-」項を参照)。

※米川はこれまで通りソロ活動、BLUFFのメンバーとしての活動、他ミュージシャンとのセッションなどのライブを基盤とする旨を明らかにしている。AJ-米田渡-に関しても同様のスタンスのひとつであると公言している。

2012年12月16日、 5枚目のアルバム『End of the World』をリリース。オリジナルソロアルバムのリリースは12年ぶりとなる。

2014年3月2日、プロのギタリストとして活動を始めて30周年を迎えるにあたり『米川英之 30th Anniversary LIVE』を新宿BLAZEで行った。

2014年5月31日、米川のリーダーセッション「HYbrid」のスペシャルライブとして『米川英之 HYbrid Special Feat.向谷実 ライブ@目黒BLUES ALLEY JAPAN』を行った。ライブの模様は終始ニコニコ生放送の公式チャンネルで生中継された。視聴者・延べ25,800人、コメント数・8520の数字を記録した[注釈 3]

2014年6月21日、3月に行われた『米川英之 LIVE DVD 30th Anniversary Live』の模様を収めたDVDをリリース。

2015年3月3日、6枚目のアルバム『Circle Game』をリリース(2月26日よりライブ会場で先行発売開始)。初のオールインストゥルメンタルアルバムである。

2016年10月21日、7枚目のアルバム『CALLIN'』をリリース(10月14日よりライブ会場で先行発売開始)。これに伴い、アルバムリリース記念ライブが10月14日に行われ、その模様はニコニコ生放送の公式チャンネルで生中継された[8][注釈 4]。ライブ中盤のMCで同年12月21日に初のベスト盤がユニバーサルミュージックより発売されることなど[9]を発表した。

2016年12月21日、初のベストアルバム『米川英之 BEST』をリリース。

2018年11月22日、8枚目のアルバム『THE RADICAL SPIRIT』をリリース。また同日より、過去の全アルバム7作品及びシングル4作品がサブスクリプションサービスにて配信[10][11]

2019年3月、プロ活動35周年を迎えるにあたり『米川英之 35th Anniversary & BIRTHDAY TOUR 「DEAR MY BLUE」』と銘打ったライブを1日に神戸CHICKEN GEORGE、3日に新宿ReNYで開催。

2019年6月14日、3月に行われた上記ライブを収録したDVD『米川英之 35th Anniversary Tour「DEAR MY BLUE」』をリリース。

2019年12月19日、『米川英之 35th Anniversary Year Special Christmas Live』をKIWA TENNOZで開催。本公演を以て35周年を祝う一連の記念ライブは完結された。


2020年3月3日、『米川英之バースデーライブ2020』開催。同年3月4日よりアルバム『THE RADICAL SPIRIT』が各ストリーミングサービス及びサブスクリプションサービスにて配信開始。

2020年3月27日、4月に行われる予定であったライブ「独奏会」の延期を発表。同年4月3日、米川が参加しているユニット”THE ARAKURE”のCDリリースに伴うライブツアー「THE ARAKURE“1St CD 発売記念ツアー 2020 April”」の公演延期を発表。その他、予定されていた当面の各ライブの延期もしくは中止を順次発表した。これは前年2019年より猛威を振るっている2019新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け[12]、来場者の健康・安全を最優先と判断し、クラスターを発生させないための決定である。

同年4月8日より会場で発売開始予定であった”THE ARAKURE”の1stアルバムの通信販売が行われることが発表された。

同年5月21日、ライブ&ダイニングバー音楽室DXのYouTubeチャンネルにて「TOSHIMI SESSION 無観客配信ライブ」を行った。その後、いくつかのライブハウスにてバンド形式及びソロでのライブを行い、その模様を有料配信した。会場にはバンドメンバー及び配信を担うスタッフのみの必要最小限人数が集い、客席に観客は入場させずにネット配信を行っている。

同年6月17日、LiveMusic&RestaurantBar・SHOCK-ONにて観客を動員してのライブを再開。本来の収容人数よりも大きく座席数を減らして30名限定とし、客席間もいわゆるソーシャルディスタンスに準じて十分に間隔を取るなど細心の注意を払って行われた。今後もこの方針は暫く続け、依然、新型インフルエンザ等対策特別措置法新型インフルエンザ等対策特別措置法第24条第9項等に従う意向である。


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