米子城
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logo米子城
鳥取県
本丸石垣
(右に大天守台、左に副天守台)
別名久米城、湊山金城
城郭構造梯郭式平山城(海城[1]
天守構造不明4重(1596年)
独立式望楼型4重5階(1601年)
ともに非現存。
詳細は同項の構造を参照
築城主山名氏か?
築城年文明2年(1470年)頃
主な改修者吉川広家中村一忠
主な城主山名氏、尼子氏吉川氏
中村氏加藤氏池田氏
廃城年1871年
遺構石垣・枡形虎口・竪堀・石切丁場[2]
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度25分31.07秒 東経133度19分26.31秒 / 北緯35.4252972度 東経133.3239750度 / 35.4252972; 133.3239750
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米子城の航空写真
(1976年撮影・国土航空写真)

米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城。久米城、湊山城ともいう。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁であった。城跡は国の史跡に指定されている。

戦国時代の飯山にあった米子城(飯山城)についても併記する。
概要

米子城には、戦国時代飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭がある。江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となった。

戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されているが、南が1段高く、建物の痕跡があったという。

江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用された。四重天守(大天守)と四重(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻したには海水をひき入れていた。

昭和26年に都市計画法により湊山公園の一部となった。

平成18年(2006年)1月26日、国の史跡に指定された。

ただし、飯山と湊山が別の山と認識されたのは後世の話で、中世には1つの山に付けられた別名が「飯山」「湊山」であったとする考えもある[3]
江戸期の米子城の構造

標高90mの湊山と峰続きの丸山、湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と山麓部に曲輪が設けられた。
本丸鉄御門跡

湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、隠岐、中国山地が一望できる[4]。大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれた。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残る。

天守天守台副天守台

慶長5年(1600年)に城主となった中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守で、明治11年(1878年)に撮影された古写真が残っている[5]

初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、3重目は7間×6間、4重目と5重目は3間×2間半を測る[6]。外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、特異な外観となっていた。

高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいた。

四重櫓

天正19年(1591年)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守であるといわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に「四重櫓」と呼んで存続させたという伝承がある。規模を考慮して古天守や副天守とも呼ばれる。独立式望楼型3重4階の大型櫓で初重平面形は不整形で、石落としや出張がある。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆ったことが分かっている。

古写真は残っていないが、幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、外観および内部各階の詳細な絵図面が残っている。また米子市にある山陰歴史館、米子市立義方小学校、及び鹿島家分家に四重櫓の鯱一つずつ保存されている。

二の丸

城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた。
慶長8年(1603年)に横田村詮は二の丸の建物内で暗殺された。

二の丸入口は、東西25.4メートル・南北22.7メートルの桝形がある。

現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、昭和28年(1953年)に移築された小原家の表門長屋が置かれ、テニスコートとなっている部分もある。

三の丸

作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいた。外周には
内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門(すんずのもん)で守られていた。

現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっている。

内膳丸

本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにある。丸山と呼ばれ、標高52メートル。
中村一忠家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれる[7]。二重櫓数棟と武器庫が設置された。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もある。

登り石垣登り石垣

内膳丸と湊山山頂部の本丸遠見櫓を結ぶ尾根の上に築かれていた。江戸期の米子城絵図には登り石垣らしき構造物が描かれていたが、明治期以降、その存在は確認されていなかった。しかし、平成28年(2016年)度の発掘調査によってその存在が明らかとなった。中海側の岩盤をL字状に削り石垣を構築し、反対側の石垣の東側には土塁を構築して防御ラインを構成している。石垣の高さは3m以上で、長さは40m以上存在したと推定されている。


登り石垣に連なる内膳丸も、元々はこの登り石垣の一部と推測され、総延長は230m、築城主の吉川広家によって造られた可能性が高い[8][9]。吉川広家が文禄・慶長の役に出兵しており、倭城に用いられた先進技術を取り込んだと推測される。 

深浦

城の西方・中海に面しており、当初は
毛利水軍の軍港が設けられていたと考えられている。

飯山

戦国期の砦跡が
出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」と呼ばれたと伝わる。横田村詮の暗殺により、一族が立て籠もったのは、飯山との見方が強い。

歴史
中世

応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張した。『出雲私伝』によると、文明2年(1470年尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられる。

大永4年(1524年)大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。

永禄5年頃(1562年頃)毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復す。

永禄12年(1569年)尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らは、米子城主山名之玄と結ぶ。しかし、毛利方の吉川元春に攻められ落城、城主・山名之玄は自害した。

吉川元春は配下の福頼元秀天正5年(1577年)から古曳吉種を城主にしたと推定されている。


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