米原万里
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米原万里
誕生 (1950-04-29) 1950年4月29日
日本東京都中央区 聖路加病院
死没 (2006-05-25) 2006年5月25日(56歳没)
日本神奈川県鎌倉市
職業通訳エッセイスト作家
国籍 日本
活動期間1986年 - 2006年
代表作不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か
魔女の1ダース
嘘つきアーニャの真っ赤な真実
オリガ・モリソヴナの反語法
ロシアは今日も荒れ模様
主な受賞歴1995年 読売文学賞
1997年 講談社エッセイ賞
2002年 大宅壮一ノンフィクション賞
2003年 Bunkamuraドゥマゴ文学賞
デビュー作マイナス50℃の世界
公式サイト ⇒米原万里公式サイト
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米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本ロシア語同時通訳エッセイストノンフィクション作家小説家である。少女期をプラハで過ごす。ロシア語の同時通訳で活躍。また、異文化体験を綴った文筆家としても知られる。

著作には『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(1994年)、『魔女の1ダース』(1996年)、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)、『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)などがある。
人物

東京都出身。明星学園高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。
生い立ち

日本共産党常任幹部会委員だった衆議院議員米原昶の娘として東京都中央区聖路加病院で生まれる。父方の親類に立憲民主党参議院議員の有田芳生がいる[1]

大田区立馬込第三小学校3年生だった1959年昭和34年)、父が日本共産党代表として各国共産党の理論情報誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に選任され、編集局のあるチェコスロバキア首都プラハに赴任することとなり、一家揃って渡欧した。

9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソビエト連邦外務省が直接運営する外国共産党幹部子弟専用の8年制ソビエト大使館付属学校に通い、ロシア語で授業を受けた。

チェコ語による教育ではなくソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子供達が通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。

クラスの人数は20人を超えると二つに分けるなど、きめ細かい教育だったが、最初の約半年間は、教師や生徒が笑っていても言葉がわからず、「先生の話すことが100パーセント分からない授業に出席し続けるのは地獄」だったと述懐している。

1964年(昭和39年)11月、ソビエト大使館付属学校を第7学年で中退して日本に帰国。1965年1月、大田区立貝塚中学校第2学年編入。日本の試験が○×式あるいは選択式であることにカルチャーショックを受けた。ソビエト学校は全て論述試験だったからである。プラハの春1968年)が起こったのは日本へ戻った後の、18歳のときだった。
ロシア語を学ぶ

1966年4月、明星学園高等学校入学、1969年3月に卒業。同年4月、榊原舞踊学園民族舞踊科入学。1971年3月に同校を中退し、同年4月、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科に入学、この頃に日本共産党入党。1975年3月に同大を卒業し、同年4月、汐文社に入社。1976年3月、同社を退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月、同修士課程修了。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大学院在学中の1985年(昭和60年)、「東大大学院支部伊里一智事件」に連座して党から除籍処分を受けた[要検証ノート]が、死亡時『しんぶん赤旗』訃報欄には、党歴無記載ではあるが掲載された。後年(2002年5月13日)、逮捕直前の佐藤優に米原は「私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかとほんとうに怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」[2]と語っている。また、日本共産党から離れた後「今の社会の仕組みや矛盾を説明するのに、カール・マルクスほどぴったりな人はいないわよ。絶対的とは言わないけれど、今読むことのできる思想家の中では、あれほど普遍的に世の中の仕組みや矛盾をきちんと説明できる思想家は他にいない」と度々語っていた[3]

日ソ学院(現在の東京ロシア語学院)でロシア語講師を務め、また1990年まで文化学院大学部教員としてロシア語を教える。かたわら1978年頃より通訳翻訳に従事、1980年ロシア語通訳協会の設立に参画し、初代事務局長となる。

TBSのテレビ番組『シベリア大紀行』という番組で、厳寒期の平均気温がマイナス60度になるヤクーツクを取材し、厳冬期のシベリアを一万キロメートルにわたり横断。この経緯をテレビ番組のみならず、児童向けの『マイナス50℃の世界 寒極の生活』(1986年)として著した。
通訳として

1983年(昭和58年)頃から第一級の通訳として、ロシア語圏要人の同時通訳などで活躍。特にペレストロイカ以降は、ニュースを中心に旧ソ連・ロシア関係の報道や会議の同時通訳に従事する。

1989年から1990年まで、TBS「宇宙プロジェクト」で通訳グループの中心となり、ソ連側との交渉にあたる。TBSの特別番組『日本人初!宇宙へ』ではロシア語の同時通訳を担当。こうした活躍が同時通訳、ひいては米原の存在を一般に広く知らしめることになった。

1990年1月、ソビエト連邦最高会議ボリス・エリツィン議員(当時)来日にあたって、随行通訳を務める。エリツィンからは「マリ」と呼ばれ、大変可愛がられていた[4]

1992年平成4年)には同時通訳による報道の速報性への貢献を評価され、日本女性放送者懇談会賞(SJ賞)受賞。1995年から1997年まで、さらに2003年から2006年の死去まで、ロシア語通訳協会会長を務める。また同時通訳の待遇改善にも尽力した[5]

1997年平成9年)4月から翌年3月まで、NHK教育テレビ『ロシア語会話』で講師を務める。
作家として

1995年(平成7年)に『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年)で読売文学賞を、1997年(平成9年)に『魔女の1ダース』(1996年)で講談社エッセイ賞をそれぞれ受賞。

1980年代後半以降、東欧の共産主義政権の没落ベルリンの壁崩壊さらにはソビエト連邦の崩壊を通訳業の現場にいて肌で感じ、プラハのソビエト学校時代の友人たちの消息が気になっていた。親しかったギリシア人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ボスニア・ヘルツェゴビナボシュニャク人のヤースナの級友3人を探し歩き、消息を確かめた記録『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


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