米内山義一郎
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米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年明治42年)11月4日[1][2] - 1992年平成4年)10月5日[1][3])は、昭和から平成初期の農民運動家、社会運動家、政治家衆議院議員青森県上北郡浦野舘村長。目次

1 経歴

2 政界歴

3 伝記

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

経歴

青森県上北郡浦野舘村[1][4]上北町を経て現東北町)で、歯科医師・米内山健助、ミキの長男として生まれる[4]。1923年(大正12年)4月、青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)に入学[2][4]。同級に津島修治(太宰治)、阿部合成らがいた[2]

1926年(大正15年)10月、青森中学校を中退[5][注 1]して帰郷し青年団活動に従事[2]。1927年(昭和2年)6月、社会民衆党に入党し小作争議に加わる[2][4]。1928年(昭和3年)全国農民組合青森県連合会の創立に加わり執行委員に就任し、上北地方の農民運動を指導した[6]。1930年(昭和5年)六ヶ所村の農地125町歩を小作農民に解放した[2]。1932年(昭和7年)凶作で身売りされた婦女子を買い戻す「身売り防止運動」に尽力[4][7]。農民の生活向上のため1931年(昭和6年)上野産業組合を設立し組合長となるが、1938年(昭和13年)3月に当局からの弾圧を受けて組合長を解任された[4][8]。日本を離れ満州国に活動の地を求めたが[8]、1941年(昭和16年)1月、実際には存在しなかった「満州国開拓地赤化陰謀事件」で治安維持法違反により検挙され[1][8][9]、青森県内の監房を2年間転々として拘留され、1942年(昭和17年)2月に不起訴のまま釈放された[4][8]

1945年(昭和20年)10月、青森県社会党が結成されて入党[4][10]。同年11月、浦野舘村長に就任し、農地改革を推進した[4][9][10]。1951年(昭和26年)4月、青森県議会議員に選出されたが、1952年(昭和27年)3月の県議会定例会での質問の中で、同僚議員を中傷したとの理由で除名処分を受け、法廷で争われた結果、除名処分が取消され1953年(昭和28年)1月県議に復帰した(米内山事件)[4][9][11]

1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙青森県第1区から日本社会党公認で出馬して初当選し[4][12]、以後、第31回第33回総選挙で再選され、衆議院議員に通算3期在任した[1][4][5]。この間、社会党海外移住対策特別委員会事務局長、同出稼対策委員会事務局長、同水産対策副委員長、同「むつ」対策特別副委員長などを務めた[5]

その後、むつ小川原開発計画に対して反対運動を行い[4][9]、青森県知事北村正哉個人を被告としてむつ小川原港「漁業補償金のうち、百億円は違法であり、県にたいして支払え」(米内山訴訟)との訴訟を起こして法廷闘争を行い、1989年(平成元年)7月に最高裁で上告棄却の判決を受けた[13]
政界歴

1927年(昭和2年)6月 - 社会民衆党入党
[2]

1929年(昭和4年)- 日本労農党入党[2]

1930年(昭和5年)- 日本大衆党入党[2]

1934年(昭和9年)11月 - 浦野舘村会議員補欠選挙 落選[8]

1935年(昭和10年)4月 - 浦野舘村会議員選挙 落選[8]

1945年(昭和20年)

10月 - 青森県社会党結成 入党[10]

11月 - 第13代浦野舘村長就任[10]


1947年(昭和22年)4月 - 第23回衆議院議員総選挙青森県第1区 次点[10]

1949年(昭和24年)1月 - 第24回衆議院議員総選挙・青森県第1区 次点[14]

1950年(昭和25年)11月 - 青森県知事選挙 落選

1951年(昭和26年)4月 - 青森県議会議員選挙 初当選[11]


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